『ミルコの光』、録音物のコンテクスト

昨年夏あたりに上映された映画『ミルコの光』。ボクはこの映画を見なきゃ見なきゃと思っていたのだが、行く余裕が出始めた頃には上映時間帯が限定的になっていて、結局見逃してしまった。そしてこの度、やっとレンタルDVDで見れた。DVDのジャケットをここにのっけようと思って試したが、まだ市場には出回っていないらしい。サウンドトラックCDなら発見できたんですが...
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時は1970年代初頭。銃でいたずらしてたらそれが暴発し、そのため視覚に障害を持ってしまったミルコ少年(小学校低学年くらい)が、テープレコーダーで遊ぶことを覚え始め、それがエスカレートしていろんなものを録音しはじめる。彼はサウンドスケープなんて概念をもちろん持っているはずはない。なのに、風の音、高炉の音、キッチンにあるトレーやおたまの音を次から次へと録音していく。この少年の凄いところは、録音物を再生する際、録音した際のコンテクストを全く無視できること。だから、キッチンでの録音物は、再生する時にはキッチンの音でなくなっていて、なにか他の音として機能している。ミルコは録音物の種類が豊富に準備できていなくても(そもそも、レコーダーは学校の校長の許可なく使用しているし、子どもであるミルコには、利用できるテープだって無限にあるわけでもないのに)、限られた音源の中に、さまざまな音の解釈の可能性を示しているのだ。テープミュージックがどうのこうのと真剣に議論する人々を、子どもの機敏な動きですんなりと交わしてしまっている。すばらしい。

この辺の録音物に関するテーマそのものは、日本の著作でも触れられている。だけれども、こういう録音物のコンテクストに関しては、今になってもあまり触れていないのではないか、特に日本では(日本語では、この手のことを読んだ記憶がない)。う〜む、音のコンテクストを読みかえは、サウンドアート領域では当たり前の基本の「き」なんだろうなぁと、ボク個人としては数年前に考えていた。数十年前の小学生がいとも容易くやってしまっているとは、まったく驚くほかないのだが、この少年は現在、イタリア映画の音響技術者として屈指の人物なのだと映画のエンドロール一歩手前で知った。