竹田雅子/渚にて

とりあえずちょっとした報告から。戦争のサウンドスケープはとりあえずうまく行きました。会の主催者や他のベテランの発表者の方々から、もっと大きなところでやれば、ってことを言われ、またやらんといかんのか、とため息つきつつ、でも、まぁ、それもいいことかな、あとはちゃんと出版の形がとりやすくなれば、的な感じで。相変わらず、ボクの思考はグデングデンですがやることはやらんとねぇ...それにしてもスロー・ラーナーなボク。何とかならんかね。とある原稿に関しては、期限を思いっきりブッチしてるし。

今日はちょっと多めに書くかも。ほとんど一週間ぶりに書き込んでるわけですからな。2、3日前、このブログをみてくれてる友人に、もう飽きたの?最近全然書いてないでしょ?的なことをズバット言われ、飽きてないけど、ただ面倒くさい、ネタはあるけど、パソコンに向かうのがイヤ、とかいうの、恥ずかしいよなあ。なんかボク、ホント、ダメだ。

で、ですが、今日ちょいとした感動があったんですけど、それは、おにんこ!、っちゅうバンドなんですわ。ニーハオ!みたいに3ピースの女の子バンドなんですが、その下手ウマ感といい、蔦木氏が曲書いてたりで、ツボがすべてメガヒットされた感じですよ。ボクが未だに高校生だったら、きっとこのバンドを耳にしたとたん鼻血が高木ブーだったことだと思うよ(にしても、ニーハオ!とかおにんこ!とかの最後の「!」は何でしょう?おにんこ!に至っては意味不明なコトバだし)。ヨシノモモコ氏のバンド、例えばオートマチックスとかアプリコッツが好きならば、お勧めです、その路線ですから。バンド名は関西テーストですが。

で、タイトルの竹田雅子というのは、渚にてという言わずと知れたバンドの女性です。柴山伸二がその相方といえばもっと分かりやすいのだろうか。しかし、竹田雅子がこんなに早くこのブログに登場するとは思わなかった。渚にては今年はアルバムをリリースすると、昨年のライブで発表したのだけれど、新作が世に出たときに渚にてに関しては触れればいいかなぁ、思ってたくらいなもんで。

で、ボクが竹田雅子にこだわるのはどうしてかと言うと、渚にてというバンドの形態は、さっきの柴山伸二と竹田雅子の2人だけで、ライブになると、あんまりあれやこれやとできるわけではないから、柴山がギターを弾いて、歌って、って言う具合で中心的な役割を果たし、一方竹田雅子はドラムとコーラス、時に歌くらいの役割で、ちょっと端っこ感が否めない。だけど、CDとなると、これは見事に逆転する。竹田雅子こそが、現在の渚にてを形づくっている。

CDに関してもっとちゃんと言おう。昔の作品はCDでも柴山伸二が中心的で、いろいろ楽器をこなしていた。竹田雅子はあくまで脇役。だけど、その頃の渚にては圧倒的に、つまらない。これはボクだけが言ってるのではない。だけど、竹田雅子がCDにてあれやこれやとやりだした途端、渚にては物凄い、とんでもない変化を遂げてしまった。そして、その結果は、やはり凄まじい。ボクが竹田雅子に絶対的にこだわるのは、この点なのだ。

竹田雅子は凄まじい、何度も書くつもりだが。ドラムはもちろん叩く、その他にもギターなど、というか、彼女はひとりで、基本的なパートは全て担当することができる。で、2人の違いは、柴山伸二は曲をかっちりと構成していくタイプであるのに対して、竹田雅子はまさしく「こんな感じ」で全てを片してしまうことができる。たぶん、どういうわけか彼女の方が曲をアブストラクトに捉えられる。で、ボクはこの竹田雅子のアブストラクトな感じが作品にもたらすものは、柴山伸二のそれをいとも容易く超えてしまうのではないかと思う。で、それを思わせるような文章を今日見つけた。

それは、ゴミカワフミオ(incapacitants+pain jerk)というノイジシャン集合体のCDのライナーノーツとしてT.坂口という人が書いた文章なのだけれど('Return of Gomikawa Fumio'. Alchemy, 2002)、どうせこんなのには著作権もへったくれもないだろうから(あったとしても)載せちゃおう。

渚にては『こんな感じ』の「新世界」においてノイズの創生過程を見事に歌の中心に編み込む。信ずべきものを信じ、未来へと進んで良いものかと惑いながら進み往く心の揺らぎは安易なノイズが伴う軋みなどを立てはしない。けれど、はっきりと騒音を奏でてくれる。騒音とは、心を騒がしく活性化してくれる音、生命原理の根底をくすぐりエネルギーを喚起してくれる音を言う。愛すべき「新世界」は、慎重な指の動きで竹田が奏でるファズ・ギター・ノイズの逆回転音を枕に始まる。ノイズ創生のプロセス沿いに固体発生をさかのぼっているような妄想を覚えてしまう。

ここに気付くか気付かぬかで、渚にてに対する考え方は大きく異なると思う。渚にては、柴山伸二がハレルヤズの延長線上でただただやっているようなバンドでは最早ない。ハレルヤズや初期の渚にてでは、坂口氏が指摘するような渚にてのあり方は不可能だと思う。このバンドは、竹田雅子の「こんな感じ」という一種のナチュラルな才能で、典型的なフォーク・ソングで聴ける静寂と歌という関係の中に、静寂とノイズという関係をもぶち込むことを、すんなりと成し遂げてしまった。で、これが何たる奥行きのあることか。「新世界」の出だしは、引用のとおりでファズギターで始まり、それが竹田の歌へとつながっていくのだが、これが混沌から秩序へ、そして秩序から混沌へ、という運動を絶えず繰り返すことになる(少なくともボクの頭の中では)。混沌と秩序、これは柴山伸二だけでは到底無理だ。ファズだけではない。音を歪んでしまったワウなども、ワウのレートは一巡する度に、この運動を思い起こしてしまう(少なくともボクは)。ジャック・アタリ的に、ノイズ(混沌)=音+秩序、何て公式をそのまま受け取るつもりはないけれど、少なくとも、竹田雅子が大きく関わるようになった渚にては、秩序の世界も混沌の世界も響かせてると思う。

そして、嬉しいことに、『夢のサウンズ』が出たのはもう2、3年前だったか。このアルバムは過去の曲を再アレンジして発表されたこのCDは、やはり出色の出来だと思う。「渚のわたし」は殆ど竹田雅子のソロ・ワークと見なして良い傑作であるが、竹田雅子が本格的に渚にてに関わると、このバンドはどういう音を出すかの証明になっている。つまり、竹田雅子の在/不在が『夢のサウンズ』と過去のCDとの対比でよく掴めることになっている。このブログにどれだけ読者がいるのか知らないが、『夢のサウンズ』と過去の渚にてを聴き比べ、確かめてほしい。渚にては、竹田雅子こそが中心的人物であることを。そしてボクは強く願う。竹田雅子の、完全ソロ・ワークを。