ライブ報告

いってきました。吉祥寺スターパインズ。

会場は満員でもなく、熱気があるわけでもなく、程よい観客数、ってよくわからないことを書いてますが、好きな席を陣取るつもりで早めに行きました。

チケットの数字自体はかなりでかい数字だったので、その席が陣取れるかどうか不安でしたが、そんなものは杞憂でした。取れました。僕の好きな席というのは2階席の正面最前列の席。1階の席というのは、案外ステージ全体を見るのには向いていない。これはロンドンで演劇を勉強していたときに先生から言われたことだが、ステージとは2階から見るものですよ、と。

で、ステージ上にはアンプが2台。そして山本精一1人。開演1時間前からサンプラーがなりっぱなし。幼稚園の音がいちばん印象的だったけれど、いろんなところで録ってきた音がずーっと鳴ってた。

開演までの1時間、いろんなことを考えてしまった。スターパインズに行ったのはほぼ2年ぶり。吉祥寺に行くっていうのは、僕にとってはすなわち、羅針盤をみるということだった(だからチャイナが死んで2年になるのね、もうじき)。

スターパインズでやる羅針盤は必ずすばらしい。ワンマンでやるにしろ、ゴーストと対バンで出るにせよ。で、照明はたいてい青を基調にしている。

そんななか、羅針盤山本精一の歌を聞くたびに、僕はむしょうに死んでしまいたくなる(死にたい、っていう願望はたまに起こりますが、死のう、という意思には発展しないので、皆さん安心してください。今までの人生ずっとそうですし)。

別に生きることに対して、虚無感を感じたりとか、世を疎んじたり、とかいうことではない。自殺とかいうものでもなくて、ただただ老衰で人が死んでいくみたいに、この音を聞きながら命絶えていたら、と思ってしまうのだ(あぁなんか今日はいつもとトーンが違うなぁ)。

なんでだろうか? わからん、自分でも。なんでだろ。

山本精一の歌い方の問題だろうか。Chaos Jockeyのときにはこんなこと感じなかったのだから。でも、フラット唱法という、このブログでも何度か言及している歌い方に関してひとつ思うことがある。

癒されるのが大嫌いなぼくだが、山本精一の歌にはなぜか癒されたときのような感じを覚えてしまう。で、そんな歌で得られる癒され感が、死んだらこんな感じで楽なんだろうなぁという予想と一致しているような気がする。こういう話は苦手なものだし、正直したくないのだが、あえて言葉にするとこんな感じか。しかし相変わらずわかりにくいなぁ。

羅針盤がばりばりだった頃は、ほんとにこの感覚を強烈に感じた。確か2005年夏の『七夕+1』というライブなんかは。ベースなしの羅針盤でサイケ感がモロ出まくると、これがこの死への願望とめちゃめちゃリンしちゃうんだ、少なくとも僕の中では。ゆらゆらと、消えていく僕、見たいな感じ。で、それが圧倒的な快楽だったりもする。

っていうか、もしかしてこれってカタルシス、ってことかい? 僕が山本精一の歌から得ているものとは? 

で、これから高円寺UFOで宇宙エンジン(インキャパシタンツ)とか樋口寿人のライブ。こちらもノイズサイケの海でございます。