Stuart Sim

ストックホルムに行くことになったことは報告済みだが、現地の寒さにしっかり気づいたのはおとといのことで、少し怖気づいた。日中の最高気温でも1℃か2℃ってとこなのだ。録音機材やカメラ,パソコンがちゃんと動いてくれるのか、心配だ。

ところで、やっとStuart Sim。

Manifesto for Silence: Confronting the Politics and Culture of Noise

Manifesto for Silence: Confronting the Politics and Culture of Noise

いやまぁなんとも、実に論旨明快。とにかくこの人は、あらゆるノイズを抑圧せよ、という。その理由は、ノイズは'humanity'にとって百害あって一理なしだからだ。都市のノイズ、ロックコンサートのノイズ、(イラク)戦争で使用されるsound bomb、これらはすべて、彼が抑圧したいと望むものである。そうでもしないと、人類の文明、知的活動が阻害されてしまう、と彼は解くのだ。

しかし、あまりに単純すぎる。コンビニでもパブのノイズでも、なんでもコントロールせよ、と著者は言うが、こんな都市を想像できるだろうか。シーンとしたコンビニ、シーンとした、誰も語り合えないパブ...

こんなSimの論を読んでいると、ウルフの『ダロウェイ夫人』に描かれる、晩に開くパーティーに招待された音楽教授を思い出す。彼は「ノイズってのは、パーティーが成功したっていう証拠だ」という。

まぁでも、著者は'silence' と'silencing'は全く別の行為であって、後者に対しては否定的な態度を取っているようで、ちょっと安心。要は、サイレンスにしてもそうなのだが、ノイズをどう解釈するのかというのはかなりコンテクストに依存している。当たり前の話であはるが。

というのが前半部分で、後半部分は「・・・とサイレンス」というセクションが続く。「・・・」とは宗教、哲学、文学、コミュニケーション論、だったりする。文学のところで言えば、意識の流れ小説と言われているものとサイレンスの関連を描写する箇所が、思ったよりかゆいところに手が届かないようで不満が随分と残るが、例えば、登場人物どうしの対話にちりばめられるサイレンスとは、決して空白なのではなく、読者の方から、何らかの意味をそこに埋めていかなければならない、と。

まぁ、そこは感じていたけどねぇ。ウルフの『歳月』なんて、サイレンスだらけだもの。あぁ、また課題が増えた。