北里義之『サウンド・アナトミア』も、何か?

明日からグラスゴー、ロンドン、そしてストックホルムへ向かいます。それはさておき、北里義之氏著『サウンド・アナトミア』(青土社、2007年)の第2章について(以下、敬称略)。第1章と3章には、今日は触れられません。ごめんなさい(大谷能生との一件があったので書いておきますが、著作者本人が閲覧されても構わないと思っています。ウェブ上で検索すれば、いろいろ判明する時代ですから)。

本のカバーに記載されていることが、本著の目玉だろうか。Sachiko Mのサイン波や中村としまるの電子音を、臓器や血管、つまりは人体の響きとして解釈しているようだ。音と人体。この2つはあまりにもかけ離れたものであるゆえ、一見なかなか刺激的な論考と思えたが、この第2章を読んで、正直がっかりした。以下、その理由を記してみようと思う。出発前の慌ただしさの中、きちんと書けるかわからないが。

この論考は、ミッシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』を参照することで、Sachiko Mや中村としまるの音をどう解釈するか、ということに主眼がおかれている。そこで、鍵となるのが
“decompose”ということばらしい。言い換えれば、de+composeとは、人体の解剖であり、コンポジションを崩すということといえようか。彼らがプロデュースする音と人体とは、“decompose”でもってつながっていく、ということか。

このことばが、どうも臭い。北里はこれを勘違いしているのではないか。有り体にいってしまえば、おそらくフーコーは、“decompose”ということばで解剖のことをいってはいない。あくまで、「解体」である。フランス語では、解剖のことをたいてい“ouvrir”、すなわち「開く」ということばで表す。人体をばらばらに切り刻む“decompose”ことではない。(英語でも“open”と翻訳されている)。ある意味、「解剖」ではなく「開剖」なのである。

たとえば、『サウンド・アナトミア』では143ページの部分に、『臨床医学』からの引用があるが、そもそもこの箇所の”decomposition”という名詞は、よく読むと、人体を解剖することを意味してはいない。北里が引用するみすず書房の訳に従えば、分析者たる死が、「もろもろのむすびつきをほどいてみせること」(下線部筆者musicincolours)を、フーコーは”decompose”ということばに託しているのであって、解剖医学で実践される解剖のことではない。引用箇所の読み込みが北里には足りない。

もっと簡単なレベルでいってしまえば、北里は解剖者が聴取する音の存在を盛んに強調するが、これもまずいことだ。この点を指摘する際に使用する際に、北里が行う『臨床医学』からの引用は、解剖医学について述べている部分ではなくて、臨床医学(クリニックといえば、わかりやすいだろうか)についての記述部分である。明白なことだが、解剖医学と臨床医学とは、全くことなるdisciplineである。解剖医学は死体を扱い、臨床医学は生きている人間を相手にするのである。もし、『臨床医学』の中で、フーコーが聴取の経験に触れているとすれば、それが臨床医学におけることであって、解剖医学のことではない。

話が先走ってしまうが、北里は解剖者が聴く音と、Sachiko Mや中村としまるの音には、構造的にパラレルになっていると主張する。論証として、きっとこれもまずい。解剖と彼らが制作する音は“decompose”ということばで接続されているらしいが、構造が似ているからといって、彼らの音に、解剖を実践する者の聴取を直結させてよいのだろうか。

北里は、母親の介護体験を契機として『臨床医学』に触れることとなったらしい。しかし、よく考えてもらいたい。Sachiko Mや中村としまるが制作する音と、同様な構造を持ったものは、他にも存在しうる可能性がまだまだ十分にありはしないのか。今回北里は、解剖を実践する者が経験する聴取と彼らの音を結びつけたが、これではたまたまではないか。つまり、彼らの聴取の経験となにか他のdesciplineとが結びついてしまったら、北里の論考は、ハイそれまでよ、という事態に陥りざるを得ない。ゼナキス(クセナキス)の様に音楽を建築にたとえてみようか。あの時代の建築物と、この時代の建築物が類似した構造を示すという理由「だけ」で、この2つの建築物に、密接な関係があるとまでは言えまい。

もっと致命的なことを言おうと思う。Sachiko Mや中村としまるの音とは、解剖を実践する者の聴取経験とパラレルな構造を両者とも有しているということを根拠に、解剖の聴取経験であるというような主張を百歩譲って受け入れたとしても、では、その似たような構造をもつ両者を、かすがいとして結びつけるものは何なのか。別の表現をすれば、なぜ、Sachiko Mや中村としまるの音が、解剖医学の聴取経験と結びうるのか、全く北里は論証できていない。

それでも一つの結論として、北里は、Sachiko Mや中村としまるが制作する音を「臓器性」という実に奇妙で聞き慣れないことばに集約する。ところが、どのようにして彼らの音から「臓器性」を引き出すことができるのだろうか。このことを彼は全く論証しようとしない(おそらく、これを論証する手段など存在してないのだろう。彼らの演奏を目の前にして、この音は「臓器性だ!」と言われて、誰が納得できるやつはいるんだろうか、根本的な問いだが)。

全体的に引用の仕方や読み方に不満を強烈に感じてしまったし、論証とて十分な論考だとは思えなかった。ここで挙げた様々なことを考えると、『サウンド・アナトミア』第2章も、大谷能生の著作とたいして変わらないレベルだな、というのが読了して思ったことである。

それはそれとして、「臓器性」とは何だろうか。ボクだったら「有機性」(organicity)というだろうか。ここでいうorganとは臓器のことを示す言葉であるし、何よりも、音楽でのオルガンと実によく結びつく(北里は学習院の人文科学研究科で、日本文学を専攻し、修士まで終えられたらしいが、日本文学では有機性という言葉は用いられないのだろうか。確か、横光利一などの作品を有機性でもって議論する人が、有名なところでいるはずなんだけどなぁ)。今日は詳しくは触れないが、Richard Leppardのこの著作の、John Keebleという和声学を作り上げた人物に関する箇所を参照するといいかもしれない。個人的には、ハーモニーと有機体論とを絡めて考えるなら、Keebleの存在は外せないと思っている。

The Sight of Sound

The Sight of Sound


さらに、北里のようにSachiko Mや中村としまるなどが駆使するテクノロジーの問題と、(臓器性ではなくて)有機性とを結びつけて考えたいのなら、Tim Armstrongなんかも役に立つかもしれない。

Modernism, Technology and the Body: A Cultural Study

Modernism, Technology and the Body: A Cultural Study

ああなんだか、とっ散らかったブログになってしまった。どうぞご勘弁を。渡航先にはパソコンを持参するので、Instal 08にせよ、Boat-Tingにせよ、To Rococo Rotにせよ、ホワイトチェペルの毎週金曜日のイベントにせよ、24 Hour Drone Peopleにせよ、現地からレポートできるかもしれない。