Yasunao Tone: Noise, Media, Language

アマゾンに注文していた書籍が届いた。

Yasunao Tone: Noise Media Language (Critical Ear)

Yasunao Tone: Noise Media Language (Critical Ear)

刀根康尚に関する研究書ということになろうか。CDも付属していて、刀根康尚に関する論文だったりインタビューが収められていて、なかなかまとまった一冊のようだ。『ワイヤー』誌(294)最新号の新刊紹介コーナーにAlan Cummingsの書評が掲載されており、即買いした。ちなみに、「失敗の美学」で名を馳せたKim Casconeが作者欄に名を連ねているが、本のどこをみても、その名前はない。Errant Bodiesってところは、きっとポイント。

月曜日の読書会のため、まったく目を通せてない状態で文章を書くのはよくないのだが、William Marottiという人の文章が面白そうだ。この人は、戦後日本の文化政策などを専門にしている。もしもそんな文脈で刀根康尚の作品を解釈しているのなら、佐々木敦などでは着手着想しえない文章ということになるのではないか。期待大である。ボクは、ノイズという音が日本で西洋世界で、どんなどんな文化的、政治的扱われ方、表象のされ方があるのかに興味があったりして、Marottiに引きつけられている、今のところは。

付属CDには7作品収められていて、Tr 5の 'The Seminar on the Purloined Letter'が凄まじい。Annea Lockwoodポーの「盗まれた手紙」という短編の講義の録音物あり、またその講義では、短編をベースにしたラカンに触れてたりして(文学部の授業ではよくある講義風景であり、講義内容なのだろうが)、とっても賢そうなトラックなのだ。このいわばレクチャーのサウンドスケープみたいなところに、どんどんありとあらゆる音が浸食してくる。

この音がハーシュノイズだったり、昔のゲーム機みたいな電子音だったりするのだが、音楽/音/ノイズみたいなヒエラルキーみたいなものが一瞬にして崩れるようなモーメントを記すことに成功しているような感じ、しかもそれが浸食する側にもされる側にも起こってしまう。ありきたりな表現だけど。

ゆえにこの講義、断片的なコラージュ色が強いのだ。再生した直後は、ポーやラカンのことが講義で触れられるとは知らず、キトラーの『グラモフォン、フィルム、タイプライター』が紹介される場面であって、Musicologyの授業かとすっかり思い込んでしまった。MusicologyというよりMusicollageという感じか。なんちて。ただしょーもないオヤジギャグが言いたかっただけ。

Alan Cummingsは、刀根康尚の知性やhistorical avatgardeとかを持ち出して、Wolf Eyeを対極に置いているらしい。Wolf Eyeがマッチョだからってちょっと安易なことを言っているような気もするが、それより、刀根康尚の指先の感触まで聴こえてきそうな音のテクスチャーとかWolf Eyeの(とりわけステージ上の)身体性とか、とにかく音を扱いながらもにじみ出る人体っぽさにとても興味を感じるようになってしまった。