クセナキスと抵抗のうた

先日取り上げた高橋悠治の本について。

高橋悠治|コレクション1970年代 (平凡社ライブラリー (506))

高橋悠治|コレクション1970年代 (平凡社ライブラリー (506))

今からもう30年以上前に書かれたエッセー集だったが、自分にはアクチュアリティーのある一冊だった。この本はクセナキス、ベートーベン、エリック・サティなどの音楽論、それからアジア諸国における音楽の意義を政治的に解き明かそうとする(アメリカによる文化的帝国主義によって蝕まれ、失われるフィリピンの音楽、タイの政情の不安定さから、人々の間から生まれた抵抗の歌)文章からなっている。

クセナキスの音楽とアジア諸国の音楽――この2つは一見結びつきそうにない。しかし、クセナキス自身が第2次世界大戦中に行った政治的活動を鑑みれば、案外この2つを同時に議論することは可能なのかもしれない。著者はこの2つをあたかも別物のように扱っているかもしれないが。

ボクとしては、フィリピンやタイの抵抗の歌に関する章に興味を持った。ボクは以前から、うすうすとではあるが、民族のうたが気になっている。ただそれは、いわゆる大文字になりうる歴史を背負っているような歌ではない。だから、高橋悠治が記したような、政治的抑圧へ立ち向かう人々の間で発生した歌、抵抗する人々のヒーローを歌った歌とはちょっと違うかもしれない。ボクは、民族に降りかかった出来事を歌った歌で、個人にのみ還元されてしまうのではなく、どの民族でも共有できるような歌を一度は探求してみたいと思っている。ただこの本は、今後ボクの参考に大いになるような気がしてならない。

ただ一点気になるのは、こんなに大金をはたかないと音楽はできないのかと質問された時のクセナキスの回答は不十分なものだったと高橋悠治は回想しているが、その時の高橋悠治の立ち位置はどこにあるのだろうか。

クセナキスはそれこそ、大金を投じてコンピューターを使用し、確率論を基に作品を構築していった。一方、フィリピンやアジアでの民族の抵抗の歌は、そこからまったく離れている、いや対極にあるといっても良いのだろう。ギターやハーモニカさえあれば歌として十分成立するだろう。後者のような歌を称揚し、時にromanticiseさえしているとまで思わせる高橋悠治は、いくらレジスタンスに身を投じていたとはいえ、コンピューターによる処理を通して初めて構築可能なクセナキスの作品を、どのように眺めているのだろうか。抽象度の高そうなクセナキス作品に(そうでなくとも音楽は抽象度が高いと言われるけれど)、レジスタンスの痕跡を認めよとでも言うのだろうか。そうでなくとも、IBMの恩恵にあずかっていたクセナキスは文化的帝国主義の一翼を担いかねないのに。