灰野敬二、早川義夫ライブ@新宿JAM

ここのところ、書くのをすっかり忘れてました。最近、極力PCに依存しない生活を目指してるもんで...時代と逆行してるかしら? そんなもんで、日曜日に行ってきたライブのこともすっかり触れずにすごしてしまった。

12日(日)に行ったのは新宿JAMで、灰野敬二早川義夫のライブがあったのでした。これは、埋火のライブに一緒に行ってくれた友人が誘ってくれたので、こちらも行くことにしました。自分ではぜんぜん気づかずにいたライブでした。誘ってもらえて、本当よかった。

今回は灰野敬二のライブってことで楽しみはあったにせよ、早川義夫のことは名前しか知らないくらいなので、ちょっと冒険の意味合いもあった。早川義夫についてボクが知っているのは、佐久間正英と結成したCes Chiensくらいのことで、ジャックス時代のことは無知であることを認めざるをえない。Ces Chiensはかつて、NHK-FMの番組、ライブビートのスタジオでで観覧したことがあるくらいなもんで。

Ces Chiensのことしか知らないせいか、早川義夫は個人的なことをストレートに、あまりにストレートに、開けっぴろげて歌うし、演奏とて凄みがあるわけでもないし、その辺のストリート・ミュージシャンが老成したようなものとして、ボクは簡単に退けてしました。こういう早川義夫はただただ、音楽としては安直すぎはしまいか、と。無防備なのではないか、と。

この辺の考え方は、如実に、濃厚に、人間としての自分が出ておりまして...ボクは中学校以来XTCを聴き始めるような人間で、曲の構造が簡単にあたまにインプットできてしまうので、当たり前の形式しかとらないような曲を、ほぼ例外なくつまらないと判断し、排してしまうということ。それから、ボクも早川義夫並に「偏屈な」人間でして、たとえば人とか人間ということばに対し、面と向かいあうのがとても苦手である、ということか。そのために、早川義夫のストレートさに、自分の生きざまみたいなものを作品にストレートに投影してしまわれていることに、どうしても居心地の悪さを感じてしまうきらいがある。そんなものを作品にのっけるんじゃねぇ、と。

自分ではそのへんの偏屈さを重々理解していて(遅きに失した感もあるけれど)、まぁそんなことは人から指摘を受けずともわかりきっているんですが、そういう偏屈さをいったんカギカッコにいれることができるようになったのは、まぁ比較的つい最近の話だったりして(こっちのほうがもっと遅きに失している)、そういう芸当を手に入れたとなると、やはり早川義夫の聴き方がずいぶん変わってくるわけで。当たり前か。

それでも、歌詞の中で偏屈さを自認するような歌手が、たとえば父親と月をみながら温泉で(風呂で?)暖まろう、みたいな歌詞を歌うのを聞くと、この歌手のどこが偏屈なのかという疑問を出さずにはいられないものの、偏屈なボクは、早川義夫のようなストレートさというか、(恥ずかしいが)一種の素直さを出せるか/出せているかという疑問を自分に突きつける番となるわけで...早川義夫を聞くと、ちょっとダメな自分、痛い自分がいたりする。

実はライブ前の予想として、灰野敬二早川義夫がずっと共演したおすといいなと思ってましたが...そんなことはなく、先攻は井野さん、後攻早川さんという2部構成でした。でも最後に一曲だけ共演がございまして、それは早川義夫の演奏に灰野敬二が乗っかる形だったですが、灰野敬二の乗っかり方、切り込み方はやはり凄まじくて、その凄まじさたるや、ダモ・鈴木のライブの時の灰野さんを思い起こすに十分でした。