池田亮司@東京都現代美術館とその不満

池田亮司の展覧会があると偶然知ることになり、28日(火)に足を運んでみた。東西線木場駅からの道すがら、天候も良く、とても気持ちよかった。火曜日は午後に空き時間を作っり、がらがらな会場を狙った。

ところで、池田亮司の作品やCDを含めて、まったく経験がない。ただ『ワイヤー』誌にひんぱんに登場する日本人の一人でもあり、興味があるにはあった。日本では視覚芸術と聴覚ものとの融合みたいなものが流行ってるんだろうなぁと思っているボクとしては、池田亮司みたいな人物は、まさにその典型と言えるような感じだ。

展覧会の入り口に、日本語と英語で、池田良司が3分でわかりますよ的な文章が壁に印刷されている(しかし、展覧会に行くとかならず出くわすのだが、解説は解説でも、日本語と英語の解説では、情報量も内容も、質も量も全然桁外れに違うのはどうしてだろうか?)。英語版でしか記述されていない解説のなかでひときわ目をひいた部分は、池田良司は作品を通して、この世界は決してランダムに構築されたものではないということを表現しているということだった。ちなみに、キュレーターの動画は、行った次の日に見ました。コチラ↓↓

映像作品であれなんであれ、遠くから見ると、白や黒のかたまりでしかないのだが、近づいてよくみると、こまかなこまかなこまかな数字の羅列がスクリーンに映し出されている、または彫り込まれている。素人にはただの羅列しかない。英語版解説でも、キュレーターの解説にせよ、ランダムさが作品に表れているのではないという。特にキュレーターの話だと、何をもってランダムかというのはとても難しいという。その数字の膨大さは、この世界の膨大さを表しているんだろう。コンピューターの世の中だから、ありとあらゆるものが数値化できるという理屈も、まぁわからないではない。でもボクなんかは意地悪だから突っ込みの疑問を持ってしまう。では、作品を鑑賞する人間が、「これはランダムな数字の羅列ではないのだな」と判断するための手がかりは、作品に提示されているのか?と。タテヨコ共に、数十メートルもあるスクリーンに、ミジンコみたいに細かい数字が、絶え間なくプロジェクトされていくのだ。それらの膨大な数字に直面する鑑賞者が、そんな数字の羅列のなかに、何がしかの法則や秩序を読み込めるための手がかりでも何でも、ほんとうに認識可能な作品として制作されているのだろうか。

その入り口の英語版の解説の文章を読んで思ったのだけれど、池田亮司ってひとは、きっと世界の構築がランダムになされたのではないってことを前提にしているのかな。それゆえに、その世界を構築する膨大な数字の羅列から、ある種の法則とか秩序みたいなものを受け手は拾えるだろうってことなんだろうか。これが数学だけの世界なら、話にはかなり説得力があるかもしれないけれど(ボクはいわゆる文系の人間ですけど、数学が好きで好きでたまらなく、理系に転びそうになったことが何度もありますです)、ゼロかイチかみたいな論理で割り切れないところこそこの世界なんじゃないのかしらと思ったりもして...あまりに人文科学的な発想か。にしても、かなりこの点に関しては残尿感マックスです。早い話、あまり池田亮司作品には説得されませんでした。

まぁでもこれは、池田亮司作品の一面でして、かれはあくまでも?サウンド・アーティストですから、では音の方は?ってことになるわけですが、まぁこちらの方は、いろんな音を読んできた人間にすれば、特筆すべき音でもなく、まぁ可もなく不可もなく。いや、それではいけない。

またまたキュレーターの話だと、どうも共感覚ってのが池田作品にはあるらしい。共感覚のことはあんまりわからないけれど、これって相当個人個人バラバラの話ではないの? ボクも共感覚ってことばを知ってから、視覚と聴覚のことは折に触れて考えてはみるものの、映像と音楽とを結びつける決定打みたいなものってのがあるのかしら。映像の動きのリズムと音楽のリズムをあわせるのは、きっとアホでもできる。問題はもっと深いところにあるのだろう。映像にはオブジェがある具象の世界、音は抽象の世界とよく言われる。この二つによる接点が、共感覚ってことばだけで折り合いをつけられるのか。共感覚のことがわからないので、話がポイントレスになってしまっているかもしれないが、この点もガチで残尿感。

最後の展示物は、5つのでかいスピーカーがあって、それぞれ周波数ばらばらのサイン波が出ている。この展示の狙いはきわめて簡単で、立ち位置や身長によって、物理的な状況に変化が生じてしまうので、耳に届く音が全く変わってしまうということだ。って思った上で、さっきのキュレーターの話のyoutubeを見てみたら、まさにそのレベルを出る物はない。でもこんなのは日常的におこる話で、サイン波のでかいスピーカー5つでなくても、聴こえる音は、人によって違いが生じる。当たり前の話だ。チョーミエミエ見え透いた作品群。

最後に。タイトルの「+/ー:the infinite between 0 and 1」とは結局なんなのか。このタイトルは果たして、展示を反映しているのだろうか。もしや、このタイトルと、入り口の英語解説とは相反しはしまいか。

たしかにあれだけの作品をアップル社のパソコンで制作するのは相当の労力を必要とするだろう。池田亮司作品をポジティブに評価する人の気持ちもわからないではない。パッと見は最先端行ってる感じするもの。でもボク自身、よくよく考えると腑におちないこと、説得されなかったことがあまりにあまりに多く、国内外の評価にはどうも賛同できないなぁとの感想に至り、美術館をあとにした。