Waiting for Video -- Works from the 1960s to Today@東京国立近代

またまた平日の空いている昼間を見つけて美術館へ行ってきた。東京・竹橋の東京国立近代美術館へ。

この展覧会のタイトルはベケットを文字っているんでしょうが、めちゃめちゃめちゃ楽しい展覧会でした。まず最初に展示されていたのはJohn Baldessariの映像"I am making art"(1971)で、タイトルをひたすらくり返しながら、無意味な動作を延々としているというやつ(youtubeの動画では、そのセリフが聞き取りにくいですが)。

このヴィデオにまず釘付けになってしまった。ひたすらself-indulgentなパフォーマンスかもしれないし、このヴィデオを素通りしていく人も随分いたみたい。ところがボクはといえば、モニターの下に書いてある解説を読みつつ、あぁこうやってアートとそうでないものの線引きを突き破ろうとしているのかと知ると、その徹底的なself-indulgenceだからこそ持てるような力を感じてしまった。

その他、Bruce Naumanの映像もあったりする。映像に移る彼の身体の動きには、とくにこれといった流れもなく、ましてや意味といったものもなく、そういった身体の動きを一時間ひたすらだらだらと映像におさめている。

そんな(端から見れば)よくわからない映像を映し出すモニターが会場内に数十と設置され、そこに(多くの場合)一脚だけ用意された小さなイスに腰掛けモニターを食い入るように眺める来場者のようすを一歩引いた目線でみると、この美術館はまるで精神病院みたいだった。ボク自身とてそんな映像を食い入るように観ていた一人なので、あまり危険なことを言いたくもないのだが。

Vino Accontiの"Pryings"という映像もとても面白かった。Acconti自身、それからキャシー・ディロンという女性が登場するこのヴィデオが映しているのは、目を決して開こうとしないディロン、その目をなんとしてでもこじ開けようとするAccontiである。解説によれば、この作品には見る/見られるとか、公的な領域/私的な領域という二つの軸があるそうだ。ボクはそういうことはそっちのけで観てしまった。なんだか目をこじ開けようと必死のAccontiに対し、これまた応戦するかのように抵抗し目を力のかぎり閉じようとする女性の気持ちがなんだかわかるような気がしてしまったのだ。しかしボクが気になったことは、そのような二つの軸は、映像内の出来事として提示されているような気がする一方、ではたとえば、映像とそれを観るものの関係はどこかに置き去り状態になってる気もしないではなく、そのことを考えるのはきっとこの映像を観た人間のお仕事なのねぇ、と悩む。

しかしこの展覧会の柔軟性とでも言えばいいのだろうか。会場の一番最後にディスプレーされているヴィデオがまたまた面白かったのだ。Jill Millerの"I am Making Art Too"(2003)だ。

Baldessariのさっきの映像にMillerが挿入される形で登場する。彼女自身は一言も発することはないにせよ、ラップにノリノリで踊ってBaldessariに絡んでいく。2つのヴィデオには30年以上の隔たりがあるけれども、その隔たりゆえ、Baldessariが突きつけた疑問に、今度は世代という問題が前景化してくるし、きっとジェンダーの問題も同時に埋め込まれてるんだろうなぁと思う。それにしても、こういった問題をさらに乗せていくときの軽やかさにはびっくりした。また、展覧会の最初と最後のインストレーションをこの二つのヴィデオでもって飾る展覧会のウィット(とでも言えばいいんだろうか?)に、この美術館の実力を思い知らされたような気がする。