無題

最近今井和雄さんのライブを観ることがあったもので、師匠の高柳昌行にかんする本や記事を読んだりした。たとえば、『ワイヤー』誌の261号。

アラン・カミングズ(この人は、ロンドン大のSOASで歌舞伎の研究している。日本の音楽にめちゃくちゃ詳しい人)の書いた記事は、学生運動などの、1960−70年代の日本の政治状況に、新宿を中心に展開された日本のフリー・ジャズを結びつけるような、いわば歴史化の作業を行っている。キーワードを簡潔にまとめてあって、初心者でもわかりやすい書き方をしている。もうひとつは、北里義之の著書、『サウンド・アナトミア』。

サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源

サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源

こちらはう〜ん、チャレンジングではあるかもしれないが、彼の議論には説得されることはなぁ、ボク。北里の議論のいちばんマズいのは、高柳の音は、全く別の現実社会の諸相(群島、三里塚問題)を思い起こすに十分な連関をもっているっていうことらしいのだ。しかし北里が行うのは、それぞれのイメージが似てる、ってことに終始するのみでそれ以上の議論なり例証が一向に見えてこない。

これは反則だ。音楽のイメージは(その抽象度ゆえに)リスナー個々人にゆだねる他ないのだろうが、これはだがしかし、あらゆるイメージを好き勝手に結びつけてよいということではない。なぜなら、そんなことをしたら、だれもがこじづけて何でも言ったものの勝ちになってしまう。それ以上の例証がない限り、この種の本は、たんなるこじづけとしか捉えようがない。

この本を読んだ意地悪な人間は、高柳は反米だとか、高柳は単なる共産主義者だとかって結論を導き出しちゃうかもしれない。

北里の議論は例証が皆無だし、引用の仕方がむちゃくちゃだし(解剖学を語りつつ、引用は臨床だったりとか)、ビッグ・ワードやキーワードに対して、自分だけの独特な使い回し方をしておきながら、やはり一切の説明を行わないという、読者への配慮が感ぜられないというようなことは、以前このブログで書いたかもしれない。ボクちゃんワールドしか展開してないのね。

それはともかく、ギターをひとつのメディアとして高柳は前衛的というか、フリーというか、そういう演奏を行ったことはいうまでもないが、このことを前面に出しすぎる傾向が広くあるのではないか。そのような演奏方法に高柳を持っていったのは、彼のジャズ史に対する、高く、繊細な意識、言い換えれば、過去のジャズという一種の伝統への強い意識ではないか。そもそも、高柳のMass ProjectionやGradual Projectionというコンセプトの原動力はフリーとか前衛ということばだけだというのでは、かえって高柳の過小評価に繋がってしまうだろうし、それではもはや、リスナーは納得しないだろう。高柳はある意味、ジャズの歴史を背負ってしまった。たしかに高柳はジャズを捨てた身振りをしたかもしれない。でもこれは、一旦はジャズ史を背負わなければできない、やりようのない行為だということを忘れるわけにはいかない。