Phil NIblock @SPDX

結局行ってきました。Phil Niblock公演。先週の水曜日、11月18日のことだ。随分時間がたってしまったが...

今回の来日は(も?)、日本全国をまわるツアーがあったようで、各地の芸大で公演と講演が進められたみたい。

私自身、当日は疲れ気味だったので前座は見れなかったが、NIblockの2セットはきっちり楽しめた。どちらのセットでも音と映像を駆使していたが、ボクは最初のセットに興味を持った。Luc Ferrariを強く意識した作品に仕上がっているなぁと感じたのだ。

線路の音を軋ませ走る列車の音から始まるが、これと同時に、動く列車の最後尾設置されたカメラが写す線路の映像もスクリーンに投影されている。だから、何の音が響いているのかを判別するのも、映像によって導かれる形だ。しかし、音は徐々に変質していって、別の音、たとえば波の音が次に響いてくる。でもって、映像の方もそれに併せて波の映像が映し出される。

といっても、音と映像の関係が完全に固定させてしまうのではない。映像によって音の読み方のあらゆる可能性を殺してしまうことはない。そうでなく、NIblockの作品は、音の読み方、聴き方の可能性をたくさん予期させながら進められていく。ここがとても面白かった。

ただ気になるのは、NIblock自身が(3年前ではあるが)『ワイヤー』誌265号にて

述べているように、彼は映像と音とのダイレクトなリンクを作ろうとはしていないようだし、ましてや編集、加工されたドキュメンタリー映像を人類学的視点からこれっぽっちも信じてはいない。

この点は2セット目にかかわっている気がする。2セット目はドローンサウンドが響くなか、アジアのどこかの国(東南アジアかな?)の漁村や農村の映像が映し出されている。ある意味だらだらした映像で、編集とは無縁のような感じは確かにあるだろう。でも、これとて編集されてないとは言えない(記事を書いたDan Warburtonと反する意見だけれど)。そもそも、人類学への関心を記事で読んでしまった以上、カメラを抱えているのは誰なのか?っていう疑問だって生じてしまうしね。

もうひとつ、あえて不思議に思っていることを書いてみるならば、NIblockにとってのアジアって何だろう? この公演の2セット目で使用された映像しかり、『タッチ・ワークス』

Works for Hurdy Gurdy & Voice

Works for Hurdy Gurdy & Voice

に収録の"Ayu"のホーミーしかり、アジア色濃い作品がある。まさかとは思うけど、ホーミートかドローンってオリエンタルッ!っていう作品ではないのよね?