マージナル・コンソートから一週間

先週12月26日(日)のMarginal Consortのライブ(六本木Super Deluxe)から一週間経過してしまい、いつのまにか新年を迎えちゃってるし、左側の上サイドの親知らずが奥歯の上でウズウズしてるし、新年早々落ち着かない。

今井さんが書いたマージナル・コンソートのライナーノートはこちらで読めます。

このライブは年に一度しか行われないので少し気合いを入れ、ライブの前一週間ほどは、ジョン・ケージの本をちまちまと読んだりしました。そのなかに収録されているのは1950−60年代のスピーチやレクチャーを文字に起こしたもののようですが、話が重複してたり脱線してたりして、時にたまらんと感じてしまいます。その一方で、この時期のケージはもろに有機体論にこだわっている様子が散見され、偶発性だとか決定不可能性を重視してきた(であろう)前衛への視座では救い損ねてしまうだろうポイントが随所にあるなぁと痛感。

で、なんでジョン・ケージをちまちま読んでたかというと、このことは今井さんにたまに話すことなんだけれども、マージナルにとっての有機体論て大事なコンセプトだよなって常々ボクは思っているから。

ソロワークやマージナルの事に関して、今井さんはよく、音楽だと思われては困るよなぁとぼそっと漏らす。ボクはそれらの活動を音楽だともサウンドアートだともあまり思っていなくて、それよりはこの有機体(みたいなもの)が、今井さん含めて4人の共同体(らしきもの)によって、どのように作り上げられるのかがミソだと思っている。

そのミソに関して、マージナルがボクにとってとくに面白いのは、ライナーノートにあるように、「音はあくまで個別に提出される」即興だということだろうか。

即興の場面では、共演者どうしがやり取りを行ったり、共演者が突如とりはじめた演奏にとっさに反応すること、共演者が別の共演者に寄り添うような行為が珍しくないけれども、マージナル・コンソートにおいては、そういうことがほとんどない。基本姿勢としては、それぞれが自身の音をたんたんと出すだけで、寄り添うことは決してない。ライナーノートにて、「変化の中で他者との干渉が新たな変化を引き起こす」と書いてはあるけれど、干渉と寄り添うこととは全然違う。

なんと言えばよいかわからんけど、マージナル・コンソートの全体の音は即興によって形成されるけど、その即興へのアプローチが、他の即興とはまったく異なっていて、ヒネリが効いててユニークなのよね。

とはいえ、実際に見ていて疑問に思うことがないわけではない。

通例、出演者が複数の場合、誰が最初に/最後に音を出すかでヒエラルキーが存在する。ボクは今回のマージナルで3度目の体験だったわけだけど、多分、最初/最後の音だしは今井さんが毎回取り仕切っているのは間違いない。このヒエラルキーは実質的には形骸化しているけれども、形式的にはマージナルにも存在いているわけで、そのへんを今井さんはどう考えておられるのかなぁ。今度今井さんに質問してみよう。