無題

たぶんIcomosのところで触れたかどうかは、もう覚えていないが、フリージャズのフリーなところ故にフリージャズが嫌いなのだと思う。それよりpost jazzというものの方が全然いい感じに聴こえる。ポスト、なんて言ってしまうと、モダニズムの次のポストモダニズムポストモダニズムの次のポストポストモダニズムみたいな話になって、手垢がギットギトについた印象もするけれど、それとてまだフリージャズなんてぬかしているよりはずっとコンテンポラリーな感じがする。それというのも、今ジム・オルーク坂田明のセッション『およばれ』を聴いているのだけれど、これが、すばらしい。(イコモスが本当に気に食わなくて、それと比較すると『およばれ』がいい、というのでは決してない。イコモスは本当にアタマにきたけどね。ぼくはこの数年間、CDを買って失敗したという思いをしたことがなかったのだ。でもそれはイコモスによって破られてしまったのだから、この悔しさ、なんと表現すれば表現しきれるか、未だにわからないでいるよ)。繰り返して言う。すばらしい、『およばれ』は。

イコモスは、結局フリーにはなりきれてないんだろうか。『およばれ』を聴いてるとそんな気がしてくる。父親の抑圧がたまらなく辛くて逃げ回ってるような青臭い青二才男みたいな悪臭がする。それを象徴するのが吉田達也のドラムのような気がする。彼らにとって何が抑圧的な父親なのか、これはどうしても想像の域を出ないけれど、伝統的ないままでのジャズって事なんだろうか、よく分からんが。いずれにせよ、フリーでありたいという意識からこの人たちは一生涯フリーにはなれないんだろうなぁ、という解釈をどうしてもしてしまう(この考え方は、ボク自身、すごくタモリから影響受けてるのです、実は。10数年前の『タモリ倶楽部』で大学入試をネタにしたとき、小論文の「・・・について自由に論述しなさい」という問題に対してタモリは、「自由に書く事が本当に自由か」というなかなか哲学的な疑問を発していたのがずっと頭というか、心に残っているのです)。大友良英がいつも「ニュー」とかいうのがアイロニーをボクの中で起こしてしまうのと似てるなぁ、なんだか。ポストなんとかちゅうのも同じなんだけどね(はい、実は大友にもかなり否定的です、ボク。大嫌いです)。

それに対して『およばれ』。これは音の領域と音楽の領域をセッション中に行ったり来たり出来てる感じか、ところどころノイズ的アプローチ有りだし。古めのスタイルの音楽を殊更乗り越えようとか、否定しようとかいう動きを決してshow offしようとするのでもなく、音楽であることをあきらめるでもなく、さりとてノイズっぽい要素を前面に出すでもなく。音の単位として聴けるもの、音楽という単位で聴けるもののバランスとでもいえばいいのだろうか、このバランス感覚がボク、好きです。

たぶんこのアルバムは、オルークと坂田明の世代間セッションとか、坂田明坂田学の親子対決とか、いろいろ話題はあるんだろうけれど、ボクはこの作品にコルサノが出演していることが目玉だった。コルサノは、たぶんnycで演奏を聴いているし、ライブ会場で何度かすれ違っている(はず)。一度写真をぜひみてほしい。この人のビジュアルは印象的ですよ。ボクはいろいろスキンヘッドを観てきましたが、この人は、美しいスキンヘッドです(調べたらボクと同じ年だった)。勿論彼のドラム、みんなが関心を寄せるほど繊細ですけどね。

いや、何かもうこの日記、読み返してみると、ボク、何かあんまり冷静になれてないなぁ。またいずれ『およばれ』には触れますわ。そのうちこの第2弾が出るらしいし、その時にでも。