昨日書いたhisato higuchiのことだけど、この日記をウェブ上で見ると、各タームをクリックすれば、そのコトバについての説明を読むことができるけど、hisato higuchiにせよヒサト・ヒグチにせよ、下線部が引いてないもんなぁ。他に誰も参照してない、ってことに近いことが起こってるわけだよね?やっぱり日本ってそもそも島国なのね。ってか、日本人ミュージシャンなのに日本のプレスは彼に全く着目してないんだろうなぁ。こういうことに直面すると、いかに私たちがメディアによって、政治でも美意識(美学と言いたいところだけど)でも、規格化されてるかってことを見せつけられているように思う。この種のネタはそりゃアルチュセールとか読み始めた辺りから考えてたことだけど、この数カ月はアドルノを読んだりしてたから、こういうことに関するボクの憤りに近い感情が再沸騰してて...アドルノは音楽の規格化ってことを議論する時に槍玉にあげるのがジャズなんだけど(そりゃそうだ、クラシックかジャズくらいしかない時代なんだから)...まあいいや、そのうちまたアドルノをマジ読みしないといけないことになってるから、その折にでも。

アドルノ、ってことで思い出したんだけど、だれかベンヤミンの複製技術論(アウラがどーのこーのってやつ)と、現在のCDでもDVDでもいいのだけれど、このコピーコントロールの話を結び付けて議論した人っているのだろうか?ボクも真剣に考えたわけではないんだけれどさ...

たぶん、って事でちと書いてみますけどね。フォノグラフでもグラモフォンでも発明された当初は、勿論複製って事は頭にあったんだろうけど、複製されたものを売ってたわけだよね?で、この複製が行われるのは工場(とでも言えばいいのだろうか?)だよね。別の言い方すると、個人ではできなかったわけだよね、きっと。ごくごく簡単なベンヤミンの読み方をすると、アウラのないものを20世紀頭から売ってたわけだ。で、今もそれには変化なし、って所なんだろうけど、今は複製が可能なところっつうのが工場だけでなくて、家庭でもできるようになった、ってことなんだよね。パラフレーズの必要があるなぁ。工場(もしくはそのように工場に注文する制作者/資本家)だけが有していた複製の技術が、個々の家庭にも普及してしまった、ってことか。

でさ、コピーコントロールが導入された背景にはこんな感じの、複製技術の、個々の家庭への普及が背景にあるんでしょ?販売業績が落ちるからって。著作権が侵害されるからって。でもさ、これってなんとなくアイロニーに見えてしまうんよ、ボクには。

ボクはコピーコントロールのかかったCDって実は買ったことがないのでよくわからないんだが...

だいたいコントロールのかかったCDを売ってるのって、avexとか、toshibaとか、あとなんだろう、sonyとかってことろか。でさ、この人たちが工場に発注して複製を生産するのはまぁいいんだけど、この複製されたCDに録音される音楽も、ほとんど今はコンピューター化されてて、誰がやっても一緒、最初からアウラなんてありませんよ、的な音楽だよね?コンピューターさえあれば皆さんアーチスト呼ばわりされちゃう時代だもんね。実際だれかが歌うにせよ(浜崎あゆみでも誰でも関係ないんだけど)、所詮誰でもいいようなレベルなわけだよね?だもんさ、CDの売り手の皆さんはこんなしょうもないCDばっかり量産してるんだもん、各家庭でCDコピーしたっていちゃもんつけられる立場にないんじゃないの?誰が作ったってどうにでもなるような、アウラレスな音楽に、なにが著作権だ?

って思った。でもさ、コントロールかかったようなCD聴いてるやつらなんて、音楽が好きだから聴いてるわけではなくて、ファッションとしての記号が重要だから聴いてるわけで、たかが知れた聴覚しか持ってないわけだし、この種の音楽ってランキングものの音楽ってことなんだろうけど、たいした種類があるわけでもないから、実害、って実害は少なそうな気がするけどねぇ。コピーコントロールを実施してから、CD製作会社の売り上げが、業績が伸びましたなんて話、誰か聞いたことあるかい?