今日は特になにも。

最近ギターの調子がおかしい。ケガが治って結構ひんぱんに鳴らしているのだけれど、ファズが思うように暴発してくれない。前はギターのピックアップの部分をちょっとコチョコチョしてやると、理想的な暴発サウンドを発してくれたのだけれども、最近は同じことしてもうんともすんとも鳴らない。ろくな力を弦に加えているわけではないので、あたり前といえばあたり前の、正常な状態なのだけれども、ボクには物足りない、特にノイズのひどさに警察が来ても構わないかなぁと思い始めたボクには。

で、今日は金子寿徳の追悼イベントが新宿ジャムで真っ昼間からあり、行くつもりでいたけれど、(1)追悼イベントの日にしては天気があまりに素晴らしく、ジャムの地下室で天候を台無しにするのはちょっと嫌だと思った、(2)明日は秋葉原でメルトバナナとかヨルズインザスカイのライブがあり、こちらにエネルギーを貯えたい、という理由で家で過ごした。金子寿徳の死はあまりに突然のことだった。確か先月だったと思うが、オーバーハング・パーティーのイベントの時に、寿徳の死の追悼の意味で、その演奏を聴いているから、まぁ、行かなくてもいいか、とも思った。本日のゲストは工藤冬里灰野敬二など、凄まじすぎるのは言うまでもないのだけれど、こういう人たちのイベントにはいずれ間違いなく行くので、別に気にしない。5月と6月は、必聴ライブがすでに数件あるし。

数カ月前の雑誌で、イギリスの即興ジャズ集団AMMの勉強をする。Cornelius Cardew, Eddie Prevostなどで構成されるAMMが実は何を意味しているのか、誰にも判らないこと(ちょっと気になっていたこと)とか、毛沢東思想にかぶれたメンバーとの確執、それが原因のメンバーチェンジの話、ディスコグラフィ―、これまでの共演者、ここでは詳しく触れられないけれど、どれもAMMに対する興味が湧いてしまう内容だった。最近の日本のジャズでもてはやされるフリーという言葉を決して使わず、「実験」とか「即興」ということばを使うところをみると、ジャズをしっかりやろうとする気迫がひしひしと伝わってきた。

この記事の数ページ前には、John Cageとの共作の多いコレオグラファーのMerce Cunninghamの記事があった。この記事も読む。この人たちのものの作り方じたい、かなり行き当りバッタリのやりかたなのだなぁ、とちょっと関心してしまった。大体、ダンスと音楽だものね。それと、カニンガム自身、幼い頃ピアノを弾いていたらしいのだけれど、そんなカニンガムは彼のリズム感覚を凄く褒めていたそうだ。で、共同作業の最中、カニンガムがピアノを弾いていると、「こんどはヘタッチョに弾いてみようか」、だって。カラオケでしか音楽に触れない人たちに聞かしてやり対話、この手のはなし。大きく声を張り上げて、感情的にしか歌えない人たちに。メトロノームのようにリズムを取れることしか興味のない人たちに。そしてハモルことにしか歌う意味を見い出せない人たちに。こういうケージの脱きゅうした音楽を。

しかし、音楽とダンスの関係、ってどんなもんなんでしょうね。ダンサーの体の動きを見てみると、必ずしも合わせなくてはならない、というものでもないらしい。ヒップホップの世界とか、歌謡曲の世界では、歌のリズムと体の動きがまぁほぼ100%一致しているのだけれど、スポーツの現場だと必ずしもそうでもないらしい。音楽は背景では鳴っているものの、選手たちの動きは音楽と連動しているとは言えない。今アイススケートのことを頭に思い浮かべているのだけれど、回転したり、ジャンプしたりという選手の動きは、音楽のリズムやテンポとは一致していない。音楽のことは考えずに選手たちは飛んだり回転している。何だろう、この差は。

どちらに主眼が置かれているのか、ということで差がでてしまうのだろうか。ヒップホッパーは音楽重視で体の動きは2の次だから、体の動きを音楽にいくらでも合わせられるということなのか。スケート選手は身体の動きの美しさがまず大事なものだから、音楽のテンポやリズムをそれほど重視しなくてもいい、ということか。それで曲の雰囲気とか感情的な部分を踏まえて、それを身体でめいっぱい表現できていれば、スポーツの世界ではオッケーということなのだろうか。

う〜ん、よくわからん。