武満徹 全集 

いま大変なことになっている。勤務校の一つは芸術学部を抱えていて、そこの先生方にはいろいろ可愛がってもらっているのだが(特に演劇の先生がた)、芸術学部があるわりには、しかも音楽関係の学科があるわりには、図書館の音源は物足りないなぁとおもっていた。しかし、ボクの目は、耳は、武満徹全集に奪われてしまった。

この全集、第5巻まで揃っているのだが、一巻に12枚のCDがついている。すると、全部で5×12=60枚のCDを収録していることになる。くらくらする枚数である。CDは何枚あっても足らないなぁと日頃思っているボクでもさすがにこれを一度に聴くのはちょっとしんどいなぁと思っている。

しかし66歳で人生の幕がおりてしまった武満徹。しかしその間によくもまぁこれだけの作品を残したこと。いくらこの21世紀が大量生産モードになっていて、音楽業界もそれにおんぶのだっこ状態でだらだら続いているとしても、いくらビーズやらサザンやら(共に大嫌いなバンド)がリリースをバンバン繰り返しても、武満徹には質も量も及ばないだろう。まぁもっとも作品を製作する際の方が両者では全く違うモードを取り入れているわけだからあたり前と言えばあたり前なんだろうが。

しかし、今のカラオケ世代の人々にすると武満の音楽は冗長な感じがしてしまうのだろうか?10分20分はゆうに越してしまうのだから。でもきっと、武満の立場にすれば、なんでこんなにカラオケの曲って短いものばかりなのだろうか、と考えてしまうのだろうか。

ボクが十数年前に聴き始めたコステロなんかは1970年代のデビューだったと記憶しているが(今はコステロはあまり好きではない。特に80年代のものは嫌い。コステロは90年代が一番よかった。カルテットものやビル・フリゼールとの共演があったから。そのあとバカラックと共演してまたつまんなくなった)、その頃のコステロなんかはよく3分間ポップ/ロックなんて言われていた。これはきっと、アドルノが指摘してたような、音楽の規格化の問題を孕んでいるに違いないけれどそれはともかく、シングルをリリースするときは、当時はドーナツ盤だから、再生できる時間の長さが決っていたんだろうなぁ。

そうやって考えると、自分のやりたいようにやってきたのは武満みたいなスタンスのミュージシャンなのだろうけれど、逆の考え方すると、コステロにしろ、サザンみたいなバンドにせよ、よくもまぁ3分の間に作品を完結させることができるよなぁ、と感心に似たものを感じてしまう。だってリリースする度に、そのドーナツ盤の時間枠にきっちり収めないといけないんだもの。これはこれで凄いことだ。

とはいえ、CDの時代になってもはや数十年も経過していると言うのに、大衆音楽の形式があんまりかわってないっていうのは考えものだと思うなぁ。ボクはこういう状態に対しては否定的だけれども、やっぱり犯人はカラオケなんだろうなぁ(先日新宿から家に帰れなくなって、人に誘われるままカラオケボックスで余儀なく一晩過ごすことになったのですが、知ってる曲なんて一つもない身にとっては拷問です、カラオケって。ボクはかつて行きつけだったクラブで夜を明かしたかった)。歌ってなんのご利益があるんでしょうか。カラオケが加担する大衆音楽なんて、つまらんコミュニティーつくり出すだけだって。カラオケボックスって、空間としてとてもコミュニケーションが取れてるようでじつはとれない、とても痛々しい空間です、ボクにとっては。

あ、話が飛んでしまった。で、個人的には、CDの時間枠からも飛び出てしまうそうな武満の凄まじさを大事にすべきだと思う。現在のところ、60枚のうち半分以下しか手もとにないのですが、一枚ずつ丹念に謙虚に聴いていきたいです。

他にはMason JonesのCDを購入。もろノイズ。山本精一JOJO広重、ゼニゲバ(この言い方、ちょっと懐かしい)らとの共演CD。Thurston Mooreとはちがう、目の粗いノイズを聴ける。三上寛との共演でJOJO広重のステージに行ったときは、なんだかヤクザなオッサンだなとおもったが、今回のJOJO氏、ちょっと見直しました。

そうそう、今日からニューヨークでノイズのイベントだ。4夜連続。兄弟分は行くのだろう、羨ましい。