サイレンス(昨日のこと)

最近この本のJohn Cageのところを一章分読んでみた。エグい表紙の本だ。

Noise, Water, Meat: A History of Sound in the Arts (The MIT Press)

Noise, Water, Meat: A History of Sound in the Arts (The MIT Press)

普通に考えるサイレンスとは、たとえば周囲の状況が穏やかな状態だったり、物体の動きがない状態だったりするんだろうな。極端な例としては無音室ってのがあるけど…これ言っちゃあ実もふたもないなぁ。だけど、そうじゃないサイレンスって言うのがあるっていうのが、カーンのケージ解釈。

その2つめのサイレンスって言うのは、轟音が空間を埋める時の状況から発するらしい。轟音のサイレンス。サイレンスとはまったく逆なことを行ってしまっているが、つまりこういうことらしい。

轟音っていうのはサイレンスというより「サイレンシング」ってことが大きいのだと。つまり轟音の中では、それより小さな音は簡単にかき消されてしまう(silencing)ということらしい。だから、最初にあげた例の、普通のサイレンスの逆を突くような形で轟音のサイレンスが成立するのだ、と。サイレンスの裏(=轟音)のサイレンス。

ふーん。と思いながらウルフの『灯台へ』を読む機会が今日あった。

灯台へ』の第3章において、この2種類のサイレンスが存在しているのではないかと思った。冒頭の数セクション、「サイレンス」が頻発する。おかしな位に。灯台に向かう船を見ているリリーの周囲、そしてボートや海の静けさ。両方一つ目のサイレンスのようで、でもどうも船の上のサイレンスだけは夫ラムジーの、家長としてのうるささが付きまとっているような感じがしちゃう。

考えようによっては、夫ラムジーのサイレンシングとは比ゆ的な意味を持っていると思おうけど、こんなことはしょっちゅうある。まだ読んでないが宮沢章夫著の『ノイズ講義』の本て、ノイズを音ではなく、権力の比ゆ的な形として文化論(見たいな事)を展開しているんじゃないんだろうか(書評で呼んだ限りで書いているのでうそかもしれませんが)。

で、昨日の公演。
樋口さんのこと。こういうこと書いてもしょうがないのですが、「かっこいい」とか「かっちょいい」(両方一緒???)とかじゃなくて、クールなんですよ。ぜんぜん熱くない。前回の公演より、感触の粗めな音が(これは演奏が粗いということではないですよ、くれぐれも)ギターソロ中に数度あったりして、アクセントになってました。偶発的にでもあーゆー音が入り込んでくると、聴いててドキッとしちゃうじゃないですか。それがいいんですわ。で、ボクはもろさとか儚さの美学みたいなのは元来好きらしく、どうりではまってしまうわけです。聞けば昨日は彼がオーガナイザーだったらしく、ご苦労様でしたの言葉あるのみです。そうそう、ジャケットの絵出るかな?

SHE

SHE

絵は出ないか。

で、次が秋山徹次。
長い間彼の名前は知ってはいたものの、生演奏を聴くのは昨日がはじめて。
いや、フライヤーで徹底したミニマリズムが云々、とは読んでいたけれど、あそこまで容赦ないとは。Terry Rileyのギター版かな、とか勝手に想像してたんですが、そんなレベルでは全然ございませんでした(と思いつつ、小泉元首相に似てるような気も…)。すさまじい、力強い、物体を突き抜けていくような鋭利な演奏でした。勉強になりました。

あそこまで執拗に同じフレーズを繰り返されると、ヒプノティックとかいう言葉を超越してしまってる気がする。で、またまたフライヤー読むと、こんなこと書いてあるじゃないの:「身体の電子化」。

あぁ、家に帰ってちょっとだけわかった。あ、いや、わからん。今ボクは勝手に電子化を機械化と読み間違えてしまった。電子化と機械化は微妙に違うもんね。

誤読は許してもらうとして何を考えたかって言うと、自分の身体をモーターみたいに認識すれば(蒸気機関車の動力みたいに)、自分の腕を、ギターをかき鳴らす指を、指板を移動していく指を、いくらでも同じ動きで動かすことができるよなぁ、ってこと。それがあってあの演奏は成立してんじゃねぇか、と。まぁ誤読ですけど。

電子化、ってコンピュータ化ってこと? まぁそれでも結果は同じなんだけどね。いくらでも繰り返しでもループでもできる世の中ですから。

30日(日)はYuji Onikiとか巨人ゆえにデカイとかライブが目白押しですけど、日曜日だし、翌日は早起きしないといけないから、おとなしく家で引きこもることにします。