秋山徹次のこと(すべては僕の誤読であってほしい)

前回ちょっと触れた秋山徹次のこと。身体の電子化とかいうことがどうしても頭から離れない。電子化...身体にそもそもそんなことが起こるのだろうか。電子って、化学式とかで元素記号の脇にちょこっと小文字で書かれる、あの電子のこと? ますますわけがわからなくなってきた。

まぁ電子化にしろ、僕が誤読してしまった機械化にしろどっちにしろよくわからない。というか、今になって考えてみれば、僕は電子化とかそれにまつわるイメージとはかけ離れたイメージを得ていたのだった。というのも、彼のギタープレーを見ながら、リズミカルに揺れる彼の身体を眺めながら僕が思ったのは、なんて彼のギタープレーは絶倫なんだ、ってことだったのだ。

そんなことを思いながら、とある雑誌が秋山徹次にインタビューをしたのを思い出した。雑誌の山を書き分けながら、その号にたどり着いた。読んでみるとこんなことが書いてあった。インタビューワー(Clive Bell)は、現代の音楽的状況として、演奏者とテクノロジーの関係が議論をさまざまに引き起こしているということをとりあえず踏まえ、秋山徹次の「人間であることからの逃避」とは、機械が支配権を握る「古めのSF的な物語」というコンテクストと一致するって言ってるんだけど:

Akiyama's "escape from being human" acquires fresh resonance in this context, especially as his playing is consistently identifiable as the sound of a mind at work, a human engaged in physical activity.

えっ!? これでいいのか? 一致してないじゃん。"physical"って言葉が何を言おうとしているのかわからないけど、「人間であることからの逃避」が結局身体性に回収されちゃう感じ。いいのか? ここんとこどうすんのか。

むずかしいなぁ、わからんよ。でもこの筆者の言わんとする気持ちはすごくわかるような気もする。簡単に言えば、自分の身体を突き詰めて突き詰めていくと、その終点は身体が機械化する、ってことのような気がするのよ。つまり、完璧な身体としての機械。(なんだかちょっとした有機体論がここでは展開されているような気もするけれど...そこは今は無視)

なんかあの凄まじく反復されるフレーズは、ギターを弾く身にとってはきついことなんだろうけど、それは本人が人間だからきついのであって、もし秋山本人が自分の人体の極限に達してしまった時にはそのような一種の辛さは微塵もなく、それはあたかも機械がそのフレーズをかき鳴らしているようなものだ、と。彼のギターには、その執拗な反復されるフレーズから、ボクが想像する一種の辛さを超越したような、つまり人体を超越した機械的じかけの秋山徹次の姿を確かに認めようと思えば認めることができる。

まぁこの部分はどうあれ秋山徹次のプレーはつまるところとてもアイロニカルに聞こえてしまう。彼はきっと永遠に電子化(機械でもいいんだけど)を希求するだろう。でも彼自身は所詮生身の人間なので自身は機械にはなれない。そんな中、電子化を希求すればするほど、自分の身体性を否応なく彼に感じさせてしまう構造ができてしまっているようだ。別の言い方をすると、彼の人間であることから逃避すること、そして電子化を希求することは、彼自身が生身の人間であることに帰着する感じだ。

だから、彼の演奏を目の当たりにしてボクが身体性を強く感じてしまったのはこの点に集約できるような感想を持ったのよ。そういうわけで、「絶倫」だなぁって思ったのだよ。