The Pillows、そしてある知人の死

The Pillowsはボクが高校生のころに出会った。当初は4人で活動していた。初めて行った彼らのライブを見たのは、もう15年以上も前、今はなくなってしまったが日清パワーステーションという新宿花園神社から程近い会場だった。ちなみに、って話ですが、そのライブの最中にベースのウエダケンジがバンド脱退のアナウンスをしたけど、ライブは結構淡々と進んでいったのが妙に印象に残ってます、今でも。ギターを床に叩きつける姿を見いて、パンクってこういうことなのかなぁと漠然と思ったこともありました。ゲストにミスチルの桜井がタキシード姿で登場したりもしましたっけ。最近はこのバンド、なんというか「オアシス化」してしまったという理由で、ボクの興味から外れてしまったが、たまにこのバンドのことは思い出す。

で、今回取り上げるのはこのアルバム。

LITTLE BUSTERS

LITTLE BUSTERS

ボクの唯一の音楽仲間の家(奥沢にある)で開封して聴いた。サロン・ミュージックの吉田仁プロデュースだもん。ドライな疾走感。嫌いな音であるはずがない。このアルバムの「アナザー・モーニング」という曲を特に思い出してしまった。その友達を前にしているのに涙が止まらなかった。彼には不思議がられた。この曲はボクにとっては死を歌っているとしか思えなかったのだ。

出だしの部分は、母親とはぐれ迷子になって泣いている子供(たぶん男の子)の話。この子供は結局不安にさいなまれ、救いもないまま取り残されるような描かれ方なのだけれど、この部分のメロディーに乗せて歌われる歌詞が「アナザー・モーニング」なのだ。

普段の生活の中で人と別れることっていうのは、実際の死に別れではないけれど、死別するのと近い状態だ。ましてや数年も会えないだろうという前提の別れもあるのだから。そういう意味では,幾度となく想像上の死別を経験している。

この歌詞に登場する子供も、ボクにとっては少なくとも想像上の母親との死別をしている。だからこのタイトルは"morning"であり"mourning"、というより後者のことしか頭にのぼらなかった。新たな旅立ち、みたいな意味の「モーニング」、そして死別という「モーニング」。山中さわおがどんだけ意識しているのか知る由もないけど。

で、なぜこの曲か。知人の死の知らせが最近舞い込んできたからだ。

彼と知り合って恐らく今年で3年位にはなるのだろうか。昨年度はF先生の授業に彼も仕事の合間をぬって出席されていたし、今年度は学会で顔を合わせることも多々あった。一番最後に会ったのは、7月下旬、おつかれさま大会みたいなことを四谷でやったとき。その時の彼は本当によくしゃべった、楽しそうに。帰る方向が一緒だったから乗る電車も途中まで一緒。さらに、彼が通勤で使う電車にボクはそのとき乗ろうとしていて、変な偶然の一致にびっくりしたりもした。彼の勤務先には共通の知人がいて、その人のことを話したりもした。

その夜、御茶ノ水駅でボクは乗り換えのために電車を降りた。「またお目にかかれますように」といってボクは彼にさよならした。何気なく別れた。何気ないはずの別れだった。あくまで想像の上での死別だった。

でも、その想像上であるはずの死別が、本当に死別になってしまったなんて...

もし彼がまだ息をしているならば、明日土曜日、彼に会えるはずだった。もう会えないのね。「今度ボクの研究室に来て、お茶でもしていってください」って言ってくれるやさしくて、穏やかで、ボクとは正反対の性格を持ったいい人だったのに。