断片的に雑感を...

[雑感その1]
日ごろ頭を悩ましている問題。みんなカラオケよくやるけれど、これほど歌というものがありがたがられている時代っていうのもない気がする。歌がなかったらカラオケ産業なんて成立しようもないもんね。楽器もいろいろあるけれど、そんな中、歌なんて、音楽としちゃあ単なる1要素でしかないのにね。このありがたがり方が、よくわからない。

そもそも歌なんてなくったって音楽なんかちゃんと存在しうるもののはずなのに、みんな「音楽=歌」的な公式を、あまりにも無批判に受け入れているような気がする。歌なしでは音楽が成立しにくい時だからこそ、ボクはこんな疑問を常に、自分の頭の中だけではあるが、意識しているのだ:人はなぜ、歌うのか。


[雑感その2]
ユリイカ』の大友特集を読んだ。手元にないので何月号かはわからないが。David Toopの論考とか、あと大友本人のインタビューってあんまり興味深いと思わなかった。でもそんな中、杉本拓が書いた記事は、さまざまな問題をはらんでいると思う。

今日は雑感形式なので、いずれじっくり考えたいなぁと思っているのだが、彼の一つのアイディアとして、音響派とかそれに属する種類の音楽に希望を見出していないどころかフレームが固定されていることで限界さえ感じているらしい。そんな彼でも、言語の可能性に注目、期待しているという。でも、この言語ってなんだろうか。それは、雑感その1みたいな歌の歌詞ということなのだろうか。それとも、(数年前のアングラ劇団がしょっちゅうやってたみたいに)プロジェクターにでも文字を投影するのだろうか。それとも、そういう意味の言語ではなくて、なにかボクが想像もし得ないようなレベルでの言語のことなのだろうか。

その論の中で、杉本は具体的に自らの今後の展開を描写することはない。だから、今後の活動に期待するしかボクには選べる手段はない。しかし、彼がこんなことをやりたいのかぁなと記事を読みながら想像するのは、もう彼にとって、たとえ音楽家としての活動であろうとしても、いわゆる音楽用の箱でやる必要などまったくなく、ましてや音楽というフレームの中でパフォーマンスを行うこと自体が無意味になってしまわないか、という危惧に似た印象である。ステージでの彼の動きというのは、記事を読んだ限りでは、いわゆる音楽以外の行為遂行性ばかりが目だってしまいかねないからだ。

でもボクもちょっと嫌になってしまったなぁ、音響派って時に、周囲の音をありのままに受け入れましょう的な言説がまかり通っていたなんて。周囲の音をありのまま、なんて考え方ってマリー・シェーファー

The Soundscape

The Soundscape

サウンドスケープのことじゃない。なんかその安易なappropriationの仕方にがっくり。