袋小路ですな...パート1

このタイトルは、最近知り合いに言われてしまった一言だ。

この知り合いとは、先週末の学会で会った。休憩中に羅針盤のこと話したりしていたのだが、ボクはどうしても『ユリイカ』の大友良英特集に寄稿された、杉本拓の文章がここのところずっと気になっていて、つい杉本拓の名前がボクの口をついて出てきてしまった。

「袋小路」。その知人は、この言葉を杉本拓に向けられたのかもしれない。でも、ボクの状況そのままでもある。ブログの更新が最近滞っているのは、本当にこのことと無関係では全くありません。事実、ボクも苦しいです。

ユリイカ』で読める杉本拓の文章では、彼の怒りとか不満などが一気にぶちまけられていて(それは多分に大友に向けられたものだけれど)、久々に音楽に関する日本人の文章を読んでじつに清々しい気分になったのは確かなことである。そんな怒りとか不満をここで代弁する気にはなれないけれど、その内容を一部紹介すると、以下のようなことかしら(今日は、一番分かりやすい一点だけあげときます。故にパート1)。

音楽は語れない、または、音楽は感覚で聴けばよいもの。こんなことを人々はよく口にする。杉本にとってこれは、実にしゃくに触ることらしい。おそらく彼は、制作する側として感覚を完全に否定しているようすではない。だが、感覚だけが一人歩きしているような制作方法、感覚だけを唯一の頼りどころにしているような音楽に対しては、彼はとても辛辣である。

その理由は至って分かりやすい。それは何か? 端的に言おう。私たちは飽きてしまう動物なのだ。感覚的に面白いと感じた、新種の音楽であっても、いずれ飽きる、感覚が慣れていってしまうーー時間が経てば。こんな音楽が存在しようとも、ボクは何とも思わない、無視するだけ。世の中にはとっくにそんな音楽で溢れかえっているし。私にとって、どうやら杉本にとっても深刻で最悪な問題とは何か。それは、実験的手法を駆使していると言われる作品の中には、その手法がクリーシェ化されているにもかかわらず、それでもまだ実験的と言われ得る状況が、この世の中には蔓延していることだ。杉本が大友を評価できないとすれば、まさにこの点だろう。

実験的手法と非実験的手法とは、厳密に区分けするのは容易いことではない。ただしかし、制作する側として実験的手法を駆使するとなれば、何らかの意思なり意図が働くはずである。大友作品の場合、何だろうか? おそらく石川高(笙)、とかSachiko M (サインウェーブ)とかを起用することか(ある知り合いに言わせれば、最近の大友の公演の実験性は、これらの他にサイレンスの導入があるとか)。その他にもあるかもしれないが。

これらの起用、導入は、今日の音楽的状況からすれば、実験的と言えるかもしれない。サインウェーブとか笙の音を取り入れる音楽家は事実少ない。これらの音楽を制作に持ち込むのは希有だ。これくらいのことで音の冒険ができるのなら、こんなにめでたい話はない。

しかし、これらの実験がめでたいのは、その実験を初めて行う時の、または初めて耳にする時のたった1回だけだろう。繰り返しやっていては実験の意味がない。感覚も、耳も、慣れてくる、鈍ってくる。では、大友もプロダクションについて何が言えるだろうか? サイレンスの導入など、とっくにみんなやっている。笙の石川高にせよ、サインウェーブのSachiko Mにせよ、大友は長い付き合いがあるはずだ。どちらの楽器も大友作品では、クリーシェ化している。*1

ならば、大友のプロダクションとは、聴くに値するのだろうか? 少なくとも私にはもう、ない。私は大友ライブには2回しか行ったことがないが、CDでもライブでも、メンバーの中に彼らがクレジットされているのを何度となく見てきた。より正確に言えば、大友は、各方面からいろいろなミュージシャンと共演してきている。だが、長年いちいち確認していると、さほどかわり映えしないものだなと、思う。本人はどう考えているのか分からないが、人々が大友を評価する時に持ち出してくる実験性を、私は微塵も感じない。笙もサインウェーブも飽きてる。サイレンスにも。そんな状況で、よくもまぁ、インプロとか実験とか言えたものだ。

私は実験好きだ。しかし、大友流の実験には飽き飽きだ。それが正直なところだ。今必要なのは、大友のように、(少なくとも)人々が実験的といいながらその実クリーシェでがんじがらめの制作ではない。でも、「じゃ、何なんだろうね?」というところで杉本拓はきっと頭をひねっている。ボクにはひねる頭はないが、苦しんでいる。

最後に一言だけ。もちろん杉本拓に対して批判的な見方もできる。杉本は、音楽は言語化できない、とか音楽は感覚で聴くもの、というディスコースめいたものに違和感を感じつつも、Sachiko Mの音楽を、あんなものは感覚的にすぐに飽きる、と切り捨てているところである。矛盾だと私は思うが、Sachiko Mを聴き飽きない、鈍感な感覚の持ち主への悪口にはなるだろうし、杉本自身の感覚がそもそも鋭いこと、そしてまた感覚でとは別の領域で音楽制作を行おうとする意思表示の表れとしてボクはとりあえず見ている。

先月は杉本拓のライブに行くと宣言しておいて結局行けなかった。折りをみて、明大前のキッドアイラックホールのライブにでも足を運んでみようか。

*1:だいたいSachiko Mはそんなに優れたミュージシャンなのか? サインウェーブといか、正弦波というか、もう意味ないですよ。Sachiko Mがサインウェーブでやろうとしていることを、これまでのミュージシャンは、それもサインウェーブなしでやっているのではないだろうか、とボクはかねがね考えている。Sachiko Mはもう不要だ、音楽制作にとっても、サウンドスケープにとっても