ご無沙汰でございます

本当にみなさまご無沙汰でございます。永らく書くことから遠ざかってましたが、ボクは元気にしてます。

ジム・オルーク灰野敬二の公演から、音楽的にボクはいろいろトラブっておりました。それが現在になっても、実は完全復活とは言えない状況の中、苦しみを若干感じているのですが、このもやもやな苦しみは、やはり書くことで消えるのではないか、一種のカタルシスを書くことで得られるのではないか、と思った次第です。でも,ボクは一つ覚悟していることがあります。これを書くことで、ボクがこれまでボクなりに大事にしてきた親友を失ってしまうかもしれない、と。

完全復活とは言えないまでも、この不在にしていた一ヶ月強、カボチャ頭なりに資料を集め、書物を読み、情報を溜め込み、CDを聴き、そして考えてみるという生活をしておりました。なので、書くべきネタはあります、たっぷりとは言えないまでも。しかしそれでも、なかなかブログに向き合えなかったのは、その親友のメールが、ボクにはあまりにも,腑に落ちるようで落ちず、説得力がありそうでもありなさそうでもあり、何とも判断に困ってしまう内容だったことが大きく響いています。

そのメールはもう今から2ヶ月くらい前に頂いたものだと思う。その内容は朧げに,断片的にしか覚えていない。今日はブログを書くにあたり、そのメールを読み返すべきなのかもしれない。でも、あの時の気持ちを思い出すのが怖くて読み返す気になれない。

随分前のことだ。ボクが杉本拓と実験とかtonal systemのことを書いたとき、ボクの音楽の聴き方が、暖かい部屋でぬくぬくとオ○ニーしている人間のようであり、また、(ボクという人間の存在のあり方も仄めかしているのかもしれないが)世界に閉じた聴き方だ、という指摘を彼から受けてしまった。そして彼によれば、そういった世界に開かれた聴き方の方にプライオリティーがあるというのが、どうも世間の常識らしい。

いや、ボクは自分という存在が世界に対して閉じていようとも、自分の音楽の聴き方がオ○ニー的であろうとも、どうでもいい,構うことではないと思っている。ただ、ボクが思うのは、音楽を聴く時に、演奏に向かい合っている時に、ボクたちはどういうポジションにいるのか、という極めて哲学的なことを明らかにしない限り、世界に対して開いているも閉じているも、へったくれもないじゃないかと思う。(まぁ、ボクなりに考えてみれば、ボクの音楽のチョイスは、自分の美学とか好みとか満足とか快楽を満たす、などというような分かるようでわかんない目的に大きく左右されていて、こんな事態がまずいと彼は考えているのだろうか? よく分からないのだが、その辺のことは)

そもそも、聴取という受動的な行為を、どのようにして「世界」に「開く」ことができるというのだ? スピーカーの前にボクが座るとき、ステージの真下に自分の居場所を陣取っている時、ボクにとっての「世界」とは何なのか、どういう対象なのか? ボクはこの問に対してはっきりと解答することができない。その「世界」の正体がわからないのだもの、「開く」というのがどういう行為なのかも、ズバリ言おう、わからない。

ん? 例えば,かつて誰かが言ってたような「能動的なテクストの読み方」のアナロジーで「能動的な音/音楽の聴き方」みたいなことを考えればいいのか??? うむむ...でも普段の聴取において、能動性が全くの不在という訳でもないよなぁ。本を開く、とかCDをトレーに突っ込むとかという行為は、あくまでボクの能動性あってのことのような気もするのよ、だいたい何もしてないのが一番らくちんだと感じる人間なんだもの。それとも、能動とか受動とか、そんな単純な話じゃない、ってことか。

でも、こういった疑問の前に、聴取の際のポジションだ。これは今のところもっと把握不能。ええぃ、もっと書いてしまえ。これはボクに限らずみんなが知りたいトピックだ。大谷能生の『貧しい音楽』(これは本当に貧しい彼の著作集だったなぁ。いずれ触れようにも、触れたいとも思わない本。特に、ベンヤミンを読んだ感想文、最悪。ミュージシャンとしてMechanical Repruduction読むのはいいけど、ベンヤミンは音楽には弱いから、このエッセーに対してリスポンスしたアドルノの「聴覚の退化」も併せて読まなくちゃいけないじゃん!)に登場する大友良英も、この質問を浴びせられたとき、「ボクも知りたい」といいつつ、すんなり身をかわして回答を回避してしまっている。ボクは大友の作品にも否定的な立場を取るものだが、それでも、この大友の発言は正直なところだと思う。聴取の際のポジション、これはみんなが知りたい,考えたいと思っているトピック。でも、誰もまだ明確に、説得力をもって答えられないトピック。このポジションというか、立ち位置というか、これが一定の場所にカチッと決められないのだもの、世界を見ようとしたって、世界はぶれて見えるだけだ。

日本酒を一人で飲みながら書いてるブログだ、もっと書いてしまえ。ボクは、世界に閉じてる、とかオ○ニー的というレトリックが気に食わない。そりゃ一般には「世界に開く」といった方が、「閉じる」というより聞こえはいいのはわかる。でもそれは、ただ聞こえのいいというだけの話。相手を「世界に閉じた」「オ○ニー的」存在としてボクを認識し諭すというために、「常識」という(多分)世間一般を後ろ盾にし、安全パイで身を固めたぬっくぬくな人が、こんなレトリックを使用する行為そのものの方が、よっぽどオ○ニー的だと思う。

結局、彼が寄越してくれたメールは、ボクの救世主とはならなかった。ただ、考える契機にしかならなかった。いや、考える契機を与えてくれたと言った方がいいのかもしれない。今また、疑問がさらなる疑問を呼び、今まだボクは音楽的には不安定な立場にいるのだと思う。

そんな彼のメールを読んで以降、ボクはたったの1通のメールしか彼には送信していない。その内容は、まぁ言ってみれば上記のようなスタンスで書いたもので、読む人によってはボクが逆ギレしてるように感じてしまうかもしれない。それでも、もし会いたい友達は誰ですか、って聞かれたら、彼の名前は間違えなく出てくるし、また、合いたくない友達は誰ですか、って聞かれても、やっぱり彼の名前が出てきてしまうような気がする。