大谷なんて関係ない!

おっパッピーなタイトルを付してしまった。大谷能生著『貧しい音楽』(月曜社,2007年)に収録されるベンヤミン論について。だが、最初に言わせてもらおう。こんなにコッ恥ずかしい文章をかくことになるとは思いもしなかった。日本の音楽評論をたまには読んでみようと読んでみて、感想を素直に書いたらこのザマだ。

(1)まず、彼は録音技術が登場したことの意義に力点を置き、そういったテクノロジーの登場によって、私たち人間の知覚がどのように変化したのか、ということを議論しようとするらしい。これは『貧しい音楽』の中に散見され、著書に通底するテーマだとボクは理解している。この目的を達成させるべく、氏はベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』というテクストを選んだらしい。
 ところが、ここには氏の誤算があった。録音技術の登場や発展と、ベンヤミンが生きた時代は、同時代と言えなくもないし、氏としてはきっと、ベンヤミンのテクストは録音技術に言及しているというような推測も働いたかもしれない。ところが、『複製技術時代の芸術作品』は録音技術には触れないばかりでなく、扱うトピックの数も広さも半端ではない。複製技術としてベンヤミンが最も意識しているのは、視覚芸術に関するものであるし、ritual との関連で議論されるアウラ、作品のauthenticity、ひいてはファシズムベンヤミンがJewishであったことはさすがにご存知ですよね)、共同体やその知覚の変容など、高度に政治的なキータームがテクストにはボコボコと登場する。
 早い話、『複製技術時代の芸術作品』は、純粋培養のミュージシャンがお手軽に扱いきれるテクストではないのよ。その証拠に、先ほど列挙したキータームに対して、氏はノータッチを貫いておられるし(アウラという超有名、超重要な概念についてさえノータッチだというのに、このテクストを読んだと言えるのだろうか???)、その上、氏のベンヤミン論は、後半に行くにしたがって、引用ばかりが目立って、ご自分で記述された痕跡,思考された痕跡が雀の涙程度にしか残ってない。これでは、自分が言いたいことを言うために、ベンヤミンのテクストをダシに使用したとしか、人々には理解されないだろうね。ファシズムの脅威にさらされ、自害する数年前に書かれたテクスト。ベンヤミンは必死に書いたのだろうなぁ。ボクは氏のような真似はできないな。

(2)先述したが、『複製技術時代の芸術作品』は、録音技術という意味での複製技術に触れていない。だとすると、ベンヤミンのテクストと氏の論考は、実は厳密には接続できない。ならどうするか? アドルノの登場だろう。数日前のブログでアドルノの「聴覚の退化」を読まなきゃダメじゃん! と書いたのは、「聴覚の退化」が、その接続を可能にしてくれるかもしれない候補じゃないかと思ったから。
 氏はご存知でしょうね、アドルノのことを。フランクフルト学派ベンヤミンと同僚だった思想家ですよ。ベンヤミン同様Jewishでアメリカ亡命経験あり。最近日本でも、彼の翻訳が、新たに出版されたり、再発されたり、ボクにはうれしい事態が起きてます(とはいえ、殆ど英語でしかアドルノを読んじゃいませんが)。ただ、彼はジャズに対しては凄まじく否定的なエリート知識人、みたいなことを言われますが...
 その音楽に強いアドルノが、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』に応答して書いたのが「聴覚の退化」というわけ。氏がボクのブログを見つけたのは「聴覚の退化」のところだと思いますが、ボクだって、閲覧者数が限定的であれ、別にいい加減に言っているのではないのよ。というわけで、すばらしいアドルノの音楽論集。

Essays on Music

Essays on Music

(3)キツいことを。氏は、肩書きを批評家と名乗っておられるようです。ボクが想定する批評家と、氏が想定される批評家とはズレがあるだろうことは承知の上で書きます、たとえ暴力的(これもベンヤミンのキーターム)になってでも。
 ご著書で記された主だったことは、英米やヨーロッパでの研究ではとっくに指摘されていて、ご著書では、目新しさとかオリジナリティーはどこにあるのか、疑問です。たとえば、先述の録音技術のテクノロジーや知覚の変容についても、もう実は、随分と文献があります。いくつか列挙しましょう。
 まずKittler。

Gramophone, Film, Typewriter (Writing Science)

Gramophone, Film, Typewriter (Writing Science)

 そしてAttali。
Noise: The Political Economy of Music (Theory and History of Literature)

Noise: The Political Economy of Music (Theory and History of Literature)

つぎに Kahn(2月にオランダで開催されるイベントで、彼はディスカサントとして登場します。ボク、行く予定ではいるが、実現できるか不安だ)
Noise, Water, Meat: A History of Sound in the Arts (The MIT Press)

Noise, Water, Meat: A History of Sound in the Arts (The MIT Press)

McLuhanなんかも考えなきゃね。他にもモダニスト期の動向の研究書を参照する必要がありますが、これは「ほんの」1例だと,自分にも言い聞かせるように、指摘する。氏が著していることは、とっくに英米の人文科学、社会科学の中で議論がたっぷりなされていて、日本でも、カボチャ頭のボクや、同僚や、日本全国のブリリアントな研究者や批評家がこういった研究を押さえているという事実。以前挙げたAndy Hamiltonにせよ、大学で音楽美学の授業を担当し、西洋音楽を見事に歴史化することができ、ピアニストとしても活躍している、という事実。これらの事実にどう向き合うかで、批評家としての資質が問われるのだろう、と自戒を込めて書く。
 ボクが想定する批評家とは、これらの文献に当たったり、収集した上で、論考を書くこと。これができるか否かが、ボクには大事なこと。ボクは、そうではない著作を、ばっさりと切り捨てるだけ。これも自戒を込めて。
 最後に。『貧しい音楽』は月曜社による出版物。この月曜社の編集スタッフの方とは、とある翻訳の勉強会で、ほぼ月に1度、ご一緒しているのだ。だから思う。批評家を肩書きとする人物が著した書物であるにもかかわらず、なぜ『貧しい音楽』には、批評家の著作に必要なフォーマットがあんなにも欠落しているのだろうか。この点を、月曜社の方々が、放っておいたはずはないと思う。ギルロイの翻訳を出版する会社ですもの。きちんとした文献の明示もなければ、日本語の表記やフレージングもひどいまま。引用文献が出てきたと思ったら、北里氏の論考。なんだ、極めて内輪の議論なんじゃない(北里氏の著書も手元にありますが、未読にせよ、書式体裁からしてまだ希望が持てそうな1冊)。編集作業以前の出版物をつかまされた気分だった。こういう状況は、どげんかせんといかん!!!

そして最後の最後に。横国大のサークル(といっていいのかな?)でジャズをやり、『貧しい音楽』の著者に会ったことのあるSくん。悪いことは言わない。このままジャズやるなら、留学しなさい。TOEFLはボクが責任もって面倒をみます。奨学金のことも相談に乗ります。

ちなみに、ボクの現在の読書はこれ。

Manifesto for Silence: Confronting the Politics and Culture of Noise

Manifesto for Silence: Confronting the Politics and Culture of Noise

なんと、ポストモダニズムの論客Stuart Simの_Manifsto for Silence_であります。

ボクの部屋は、CDも書籍も溢れかえっている。不要なものは不要だ。そうだ、ブックオフで、『貧しい音楽』を貧しい価格で買い取ってもらおうよ!!!