今日は山本精一の『プレイグラウンド』レコ発ライブ@スターパインズカフェなのだけれど、何が起こるのかまったく予想不能だけれど、メンバーのラインアップを見ると行く気分にはなれず自宅待機。必見のライブが目白押しの9月に期待を寄せる。

第19回吉田秀和賞受賞のこれ↓を読んだ。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

いやー、これは読んで本当に良かった。音楽の語り方の手引きというか、語るためにはどのような手順を踏めば良いのかということを示している。

しかし、ボクみたいな素人ばかりでなく時折プロをも悩ませる問題がある。「音楽について語れるのか」――もちろん、著者は音楽は語れるし、もっと語るべきだと主張する。まぁそりゃぁ語れるでしょう。音楽のことをしゃべってると、フレーズだのイディオムだの文法だのと、言語学的なタームを用いることなんてしばしばあるものね。本書第2章、第3章で触れられるテーマだが、音楽も言語のように構築されるというわけだ(ただサウンドアートとかインプロやらノイズとかとなると、これが必ず通用するとは思えないのだが...)。

その一方で、この問題が多くの人から、音楽について語る機会を奪ってきたのも事実だろう。著者は、この問題はドイツ・ロマン主義の美学イデオロギーにルーツがあると示す部分などは目からウロコだったのだが、このイデオロギーが新興中産階級の出現とともに発生した音楽ジャーナリズムにも深く関わっているとの指摘を受け、ぼけーっと音楽を聴くっていうのは罪なことではないけれど、非常に損な立場だなと、妙に心がズシンとしてしまった。

音楽ジャーナリズムの問題や、音楽を専門としない聴き手の存在が本書では常に念頭におかれているためか、本書後半では音楽受容についてアドルノなどを参照点に議論している。いわゆる「アーティスト」と呼ばれる人びととジャーナリズムとのヘンテコな癒着を『・ッキン・オン』などのメディアに見てしまうボクは、やっぱりリスナーって置き去りにされてるのかなと思ってしまう。HMV渋谷店閉鎖も、置き去りにされたリスナーがHMVを見捨てたってことでもあるような気がする。

留意すべきは、音楽を語ることの限界を見極めることか。著者も書いていたが、音楽の語りは比喩を超えることはない。「音楽について」語れるけれど、「音楽そのものを」語れるわけではない、と。本書のタイトルを見て、後者を想定してしまった読者もきっといるはず。著者はこの点についてはほんのりと示すだけなので、どう考えておられるのか知りたいところ。