多忙な先週

今週はもう水曜日にもなってしまったが、先週は家→大学→ライブハウスという行動を火曜日から土曜日までずっとくり返してしまい、体が悲鳴をあげそうだった。

先月8月31日(火曜)は久々に樋口寿人くんのライブへ、場所は円盤@高円寺。樋口くんの作品は、これまでの作品にはないような断片的な構造になっていて不思議な感じがしたのと、ギターが押さえ気味なぶん、ボーカルが占める割合が大きくなったなぁーと。作品の深みは前作のほうがあったけど、最近の樋口くん作品はほんのりとした暖かみのあるエモーショナルな側面が前面に出てるな。ボーカルが前面に出てきたのには、Root Strataの"Tsuki no Seika"というボーカルだけで構成されるコンピに参加したのが影響しているのかな。

この時は、スズキジュンゾさんのPouring High Waterの演奏も面白かったし(スズキジュンゾ、見直したぞ!)と、バグパイプアコーディオン+ハーディーガーディーのめちゃくちゃサイケなセッションも素晴らしかった。ほんと、目つきがどうにかなっちゃいそうなサイケ感をここまで出せるとは!

9月1日(火曜)は、新宿ジャムで、灰野さんの不失者へ。高橋さんのしばくようなドラムはいつものこととして、今回は工藤冬里さんがベースで参加。翌日につかんだ確実な情報筋によると、この日のセッションを不失者としたのはその前日くらいに急遽決定したそうで、客のほとんどは不失者だとは知らずに会場に足を運んだことになる。ベース、すごかった。岩山を四輪駆動でのぼるようなゴツゴツ感が、そのまま音になったような。美しく、強烈で、アナーキー。やっぱり工藤冬里はただ者ではないなと思う。

9月2日(水曜)はスーパーデラックスで、ヤコブキルケゴールとかKarkowskiらのサウンドアートのイベントへ。Karkowskiは2006年のニューヨークで観たNO FUN以来の4年ぶりだったことは後で知ったのだが、猛烈、狂信的なノイズ。スピーカーの真ん前で突っ立って気づいたのだが、その時の音源はどうも、なんかの演説をベースに作られているようだった。ノイズの背後に、誰かのスピーチがはっきり聞こえた。会場内での評価も高し。

キルケゴールは現在、愛知トリエンナーレで"Sabulation"でインストレーション参加している。ボクは2年半前のストックホルムキルケゴールの作品は聴いていて、どんなんかは知っていたのでキルケゴール目当てにスーパーデラックスへ行った口なのだが、ボクの知り合いがキルケゴールと友達なので紹介してもらった。公演後はキルケゴールを含め、会場内で盛り上がる。彼は土曜日にも大塚で作品+ディスカッションの機会があると知り、土曜日にも会うことになった。

会場内で厄介でめんどくさい知り合いに声をなぜか掛けられ、ちょっとヘコむ。

9月3日(金曜)は向井千惠+山本精一のセッションを、高円寺ショーボートへ。これは最悪なイベントだった。

向井千惠と山本精一の名前が併記してあったが、これは実質的には向井千惠の演奏と踊りの会(伴奏山本精一)という感じか。とにかく、山本精一のギターは素晴らしかったが、楽しそうな表情ひとつ浮かべることはなかった。

だいたい公演前からおかしいと思った。どんなシチュエーションでも山本精一は帽子を着用しているのに、楽屋へ急ぐ山本精一は帽子をかぶってなかった。

あんなのはインプロでも何でもない。向井千惠のペースに山本精一服従しているだけだ。そう、要は向井千惠がおかしい。向井千惠は二胡の演奏者となっているが、グッズグズなドラムは叩くはへたくそなキーボードを弾きながらのど自慢するは、挙げ句のはてには踊り始めるといった調子で、ただ気ままにやりたい放題なのだ。二胡をしっかりやってくれたほうが、まだマシな公演だったのでは。これは誰かが彼女に忠告すべきだ。あれでは新興宗教のおかみさんだ。

ちなみに、ボクはさんざん山本精一のライブに通っているので、知り合いではないけれども顔は知っているという客が何人かいて、必ず誰かしらに気づくのだが、この公演に関しては誰もそういう客がいなかった。たぶん山本精一のコアなファンは、向井千惠の公演には足を運ばないのだ。ある意味、勉強させてもらった。でも、とても法外な入場料の2500円だった。

9月4日(土曜)はキルケゴールのところへ@Misako & Rosen。そこでまたキルケゴールと大勢の知人と合流。

キルケゴールのサイトに掲載されている英語のインタビュー記事は、とりあえずほぼ全てに目を通すことができたので、ボクとしてはあまり質問事項はなかった。ただ、記事にしても、会場内のディスカッションにしても、かなりテクニカルなことに集中してしまうのであまり関心がもてなかった。

キルケゴールの作品に通底するのは、隠された音を拾うということらしい。アイスランドの温泉?近くの地中にマイクを設置するとか、原発事故で有名になったチェルノブイリに行って、とある部屋の音を採取するとか、otoacousticという耳に特有の現象でしか発生することのない音を使用するとか。

ボク自身がちょっと気になるのは、これらの音は集められたとしてもアーカイブ的な性格しかもたないわけで、それだけは(芸術)作品としては考えにくい。それらの音をCDなり公演という形で作品に仕立てていくために必要な加工プロセスを、彼はどのように捉えているのだろうか。しかも、インタビューでも指摘されているけれども、ヤコブの作品に触れようと思ったらかなりの予備知識が求められる。それでは、ヤコブの作品は初体験だというオーディエンスに対し、彼の作品はどれほどの力を持てるのだろうか。会場の出口で音楽の心のメンターに会ったのだが、「まぁ、ドローンだよねぇ」なんて会話で終わってしまった。そんなオーディエンスが多数出てしまいかねないのではないか。それでは実にもったいないと思う。

でもって、本日は灰野敬二+ハン・ベニンクの公演だったけど行ける状態ではなかった。悔しいなぁ。本を読まにゃいかんなぁ。